風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

大きな喜びをもって、

ダビデは主に言った。

「私は重い罪を犯しました。

主よ、どうか僕の悪をお見逃しください。

変愚かなことをしました。」サムエル記下24:10

 

 イエスの言葉:

言っておくが、

このように、ひとりの罪びとが悔い改めれば、

神の天使たちの間に喜びがある。ルカ15:10

 

 使徒1:12~26

 使徒5:12~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/1;木)

 

 王位が確立し、国が安定した頃、ダビデ王は、自分の国の軍事力を確かめたくなったようです。それで、将軍ヨアブに命じて民を数えさせたのだそうです。

けれども、そのあと、良心の咎めを感じ、このように神に祈ったのだそうです。

 

 取税人や罪びとが大勢、イエスの話しを聞こうとして、イエスのところに集まるのを見て、

パリサイ人や律法学者たちはつぶやいたのだそうです。

「この人は、罪びとたちを受け入れて、食事までいっしょにする」と。

 

それでイエスはこのようなたとえを話されたのだそうです。

羊を百匹持っている人がいて、

一匹をなくしたら、

99匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩き、

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、

友だちや近所の人を呼び集め、「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言う。

 

 また、女の人が、10枚一組の記念の銀貨を持っていて、

その一枚をなくしたら、

あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜し、

見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、

「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」と言う。

 

 それと同じように、ひとりの罪びとが悔い改めるなら、

神の御使いたちに喜びがわき起こる、と。

 

 そして、その喜びをもって、〔父である神〕は、

ご自分に帰って来た者の、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの自分〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたもの、死んだものと手続してくださり、

新しい霊として〔聖である霊〕と呼ばれる方を、待ち望む者に派遣して、

ご自分の子、ご自分の家族とし、

愛において、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。

 

 それで、イエスの弟子たちは(使徒1:12~26)、

この〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、

この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る〔父である神〕の御思いのとおりに、

心を一つにして、多くのしるしと不思議なわざを行うようになったのだそうです。

 

 それで、ついには、人々は病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになったのだそうです。

 

エルサレムの付近の町々から、大勢の人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来て、その全部がいやされたのだそうですね(使徒5:12~16)。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

大きな喜びをもって、ご自身に帰って来た人たちを、同じように扱ってくださるのですね。

今日も。

 

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