風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

恵み深く、慈しみに満ちたお計らいによって

主よ、私の神よ、

御名のために、私に計らい、

恵み深く、慈しみによって、私を助けてください。詩109:21

 

 彼はそこをたち、父親のもとに行った。

ところが、まだ遠く離れていたのに、

父親は息子を見つけて、憐れに思い、

走り寄って首を抱き、接吻した。ルカ15:20

 

 Ⅰコリント14:1~5、27~40

 使徒6:1~7(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/6;火)

 

 天の神、主、私の神になってくださる方は、恵み深く、慈しみによって私に計らい、私を助けてくださる方なのだそうですね。

私が、私に悪口を言い、私をそしり、なじる者に囲まれているときにも。

 

 父親に、財産の生前贈与を要求し、

それを金に換えて、遠くの町に行き、

放蕩の限りを尽くしてお金を使い果たし、

落ちぶれて帰って来た放蕩息子を、

心配し続け、帰って来るのを今日か、今日かと待ちわびていた親のように。

 

 その父親は、帰ってきた弟息子を、

「死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかった」と喜び、

一番良い着物を持って来て着させ、

手に、息子のしるしの指輪をはめさせ、

はだしの足に靴を履かせて、

「食べて祝おうではないか」と祝宴を始めたのだそうです。

 

 父親のもとで、まじめに、良い子をしていて、家出をした弟を冷たく批判している兄息子の非難の中にあっても。

 

 「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、

「わたしたちが一つであるように、(わたしたちと)一つになる者」(ヨハネ17:21~22)を、

と望まれ、造られていながら、

 

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちを、

立ち返るのを待ちわび、

帰って来ると、

御子である神、イエスのいのちを犠牲にしての、贖(あがな)いのみわざによって洗いきよめ、

相続権を持つご自分の子としてくださり、

子のしるしである「子の身分を与える霊」(ロマ8:15口語訳)、〔聖である霊〕と呼ばれる方を一人一人に派遣してくださって、

〔父である神〕の御思いを心に置いてくださり、

エスのように、〔父である神〕と同じ思いを思い、心を一つにし、

〔父である神〕が一人一人を通してしようと思われることをしていく者に、

「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言えるものにしてくださるのだそうです(不完全なので、部分的になのでしょうが)。

 

 それで、受け入れる者には〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きが現れ、

愛を追い求め、みなの徳を高めるために、

〔父である神〕の愛の御思いのとおりに、

適切に、秩序をもって順序良く、

預言をし、異言を語り、その解き明かしをするようになるのだそうです。(コリント14:1~5、27~40)。

 

 それで、弟子の集団の中では、この〔聖である霊〕と呼ばれる方による、

〔父である神〕の愛と知恵に満ちた人が人々の世話をすることになり、

恵みと慈しみが満ちて、

神のことばはますます広まり、

弟子の集団に加わる人がどんどん増えていくことにもなるのだそうです(使徒6:1~7)。

今日も。

 

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