風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

キリストのからだとして、御思いのとおりに、すべてのものを管理し

自分の手が造ったものを、

再び私たちの神とは呼びません。ホセア書14:4

 

 いっさいはあなたがたのもの、

あなたがたがキリストのもの、

キリストは神のものなのです。Ⅰコリント3:22~23

 

 エフェソ書4:1~7

 使徒8:26~40(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/15;木)

 

 私たち人間は、真理を求め、生きる意味を求めて、多くの神々を考え出して来ました。

そのような無知の時代にも、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

一人の人アブラハムを選び取り、

この人から一つの民族、イスラエルを造り出し、

この民と特別な契約を結んでご自身を示して来られましたが、

今は、すべての人にご自身を示し、

すべての人が向きをご自身のほうに向け、方向転換をして、ご自身に帰って来て、ご自身を自分の神とすることを願っておられるのだそうです。

 

 私たち、人間の身代わりとなり、私たちの存在が「的外れ」になっている責任をご自身の身に負い、私たちが神に帰る道を開くために、

〔御子である神〕は、天の栄光の座を後にして、

「女の子孫」(創世記3:15)、人間イエスとなって人の世に来て下さり、

ダビデ王の子孫であるヨセフとマリヤの家に生まれ、貧しい大工の子として30年ほどを両親に仕えた後、

キリスト(神の御子、救い主)としてご自身を世に表し、3年半ほどの活動の後、

人々の手によって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 

 700年ほど前、預言者イザヤが書きしるした言葉のとおりに、

「彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれていく羊のように、

毛を切る者のまえで黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない(使徒8:32~33、イザヤ53:7)で、

捕まえられないよう逃げることもなく、

ユダヤ最高議会サンヘドリンでの取り調べでも、ローマ総督ピラトの裁判においても、自分を救うための一言の弁明もしないで。

 

 イエスが十字架にかけられたのは、朝の9時頃だったのだそうですが、

午後の3時頃、ちょうど、過ぎ越しの祭りで大祭司が神殿で過ぎ越しの小羊をほふるその時間に、イエスは息を引き取られたのだそうです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言い、

また、「完了した。(すべてが終わった。すべてを成し終えた)」と言って。

 

 墓に葬られたイエスは、三日目、日曜日の早朝、

死者の中から新しい霊のからだによみがえられ、

40日に渡って、何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語った後、

オリーブ山で、弟子たちが見ている間に上げられ、

天の父である神の右の座に帰られたのだそうですが、

そこから、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 

 それで、この方によって、

受け入れる者は、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いをその心に置いていただけて、

〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにする者にしていただけるのだそうです。

それで、受け入れる者は、キリストのもの、キリストの体の一部としていただけて、

手足がその人の思うように動くように、

〔父である神〕の御思いのとおりに、

〔父である神〕がしようと思われることをそのとおりにしていく者にしていただけるのだそうです。

 

 一つのからだとして、御思いのとおりに、

謙遜と柔和の限りを尽くし、

寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保つ者にも(エペソ4:1~7)。

今日も。

 

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