風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

管理者に必要なのは忠実であることなのだそうです。

真実を

私の口から奪わないでください。詩119:43

 

 人は私たちをキリストに仕える者、

神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。

この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。Ⅰコリント4:1~2

 

 箴言9:1~10

 使徒11:19~30(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/26;月)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方のみことば、その言葉に表された御思い、それが真実というもののようですね。

それがいつも私の口にあるようにしてください、ということでしょうか。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自身の御思いを、

エスの十字架刑での処刑を自分の〔生まれた時からの私〕という霊の処刑と受け取り、

この〔生まれた時からの私〕という霊を死んだものとしていただいた者に、

もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、

この方の働きによって、その心に置いてくださり、

御思いが心に来るようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、そのようにしていただいた者の心には、〔父である神〕の御思いが来て、

「父である神〕がその人を通して誰かに話そうと思われるとき、

その御思いがその人の口にあるようにされ、

その人は、父である神が話そうとしておられることを口から出すことになるのだそうです。

 

 パウロは、そのような在り方を、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と言っているようです。

そして、「管理者に要求されるのは忠実であること」だと。

 

 「神のひとりのようになろうとして、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、

自分一人の理性の判断で、ことの善し悪しを決めようとする性格を持っています。

 

それで、天の神、主の御思いを取り次ぐときにも、この、自分の理性の善し悪しの判断が働いて、

その自分を知恵ある者だと思って神の御思いの上に自分の思いを上げ(箴言9:1~10)、

その自分の思いで神の御思いを差し引いたり、付け加えたりしてしまう者のようです。

 

だから、御思いに忠実であることが求められるということなのでしょうか。

 

 ステパノのことで起こった迫害によって、エルサレムから散らされたイエスの弟子たちは、フェニキヤ、キプロス、(シリヤの)アンテオケまで進んでいったのだそうですが、

ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは律法にかなわない」(使徒10:28)というユダヤ人の常識によって、

ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語っていなかったのだそうです。

 

 ところが、(シリヤの)アンテオケに来てからは、ギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えたので、大勢の人が信じて主に立ち返ることになったのだそうです。

 

 天の神、主の御思いは、ユダヤ人の枠を超え、すべての民族に(創世記12:3)、

そして、地の果てにまで(使徒1:8)なのだそうですから。

今日も。

 

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