風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

見出された喜びの中で

人の子は失われたものを捜して

救うために来たのである。ルカ19:10(7/2の週の聖句)

 

 あなたは隣人を虐げてはならない。レビ記19:13

 

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、

へりくだって、

互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。フィリピ書2:3

 

 ルカ15:1~3、11b~32

 詩12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/2;Ⅰ日)

 

 イエスは、自分は正しい生き方ができている、立派にやれていると思っている人を招くためにではなく、迷い出ている者、失われたものを捜し出して救うために来られた方、

ダメなものを目がけて来て下さった方なのだそうです。

 

 それで、自分は神の律法をちゃんと守っている、自分は正しい人間だと思っている人たちから、「あの人は罪びとのところへ行って客となった」との非難も恐れず、人々から「罪びと、取税人の奴ら」と言われている人のところへも自由に出入りされ、救いを届けられ(ルカ19:1~10)、失われ、いなくなっていた者が見つかると大喜びをされるのだそうです(ルカ15:1~3、11b~32)。

 

 私たちは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方(出エジプト3:14)から、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて造られていながら、

その、天の神、主と心を一つにしている場に留まろうとしないで、

もっと素晴らしい者に「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとして(創世記3:5、22)、

天の神、主に対立、対抗する者になり、

自分一人を、誰よりも、神よりも上の位置に置き(イザヤ14:13、14)、

誰よりも優れた者、能力のある、知識のある者にならないと気が済まない者、

善いもののすべてを自分一人で独占しようとし、

自分よりも弱いものを虐げる性格を持つ者のようです。

 

それで、自分中心に考え、自分を実態よりも善く見せようとし、

自分のほうが相手よりも善いものだと思うことで安心するもののようです。

 

 この、〔神のひとりのようになり、善悪を知る者〕になっている、〔生まれた時からの私〕という霊を、〔父である神〕は、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そして、受け入れる者に、イエスを通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって(ヨハネ14:16)、

この方によって、受け入れる者の心に、ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、書き付けてくださって、受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、一つ心になり、一つの存在になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、この方の働きを受ける者は、〔父である神〕が思っていらっしゃるとおりに、へつらいのくちびる、二心と傲慢の舌(詩篇12:2~3)を、「処刑されたもの、死んだもの」から出てきた思いと見極めてイエスの足元に投げ捨てながら、相手を大切に思い、尊重する心にもしていただけるのだそうです。

失われたものであったのに、見出された、喜びの存在に。

この新しい週も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

[269RANKのランキングサイト]