風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

割礼のあるなしではなく、約束の御霊を受けて

人の子らは空しいもの。

人の子らは欺 ( あざむ )くもの。

共に秤 ( はかり )にかけても、息よりも軽い。詩62:10

 

 人の子は、

失われたものを捜して救うために来たのである。ルカ19:10

 

 ガラテヤ書3:6~14

 使徒15:1~21(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/7;金)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」との御思いで造られた人間(創世記1:26)、

その、造り主と思いを一つにし、心を一つにして生きる場に留まることをしないで、

もっとすばらしいものになろうとして造り主に対立、対抗し、

「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった人間は、身分の低い人々は空しく、高い人々は偽 いつわりで、失われた存在、一緒に秤 はかりにかけても、息よりも軽い存在になっているのだそうです。

 

 けれども、自分を「人の子」と言われるイエスは、その、迷い出て失われたものを捜し出して救うために来て下さった方なのだそうです。

 

 それで、「私は神の律法をちゃんと守って、自分の努力で神の前に立つことができるものだ」と思っている人々からは、「遊女、取税人の奴ら」と呼ばれ、見下され、相手にもされない人々のところにも、取税人のかしらザアカイの家にも、自分から、出て行かれたのだそうです(ルカ19:1~10)。

 

 神は、ご自身の御思いを、モーセをとおして、「律法」という形でイスラエルの民に示し、人が自分の力で、ご自身と思いを一つにする者になれるかどうかを人間の歴史の中で実験され、自分の力で律法を行うことによっては、神の前に義と認められる者は誰もいないことを、人々の目に明らかにされ、神の民と呼ばれる人々にも異邦人と呼ばれる人々にも、救い主が必要なことを実証されたのだそうです(ガラテヤ3:1~14)。

 

 最初の頃、イエスの弟子に加わった人たち、教会は、ユダヤ人であり、モーセの律法を守る神の民であるしるしとしての「割礼」を受けている人たちでした。

その中へ、「割礼」を受けていない異邦人も、イエスを救い主、キリストと信じて加わって来るようになったとき、その異邦人の弟子たちにも「割礼」を受けさせなければならないと主張する人たちもたくさんいたようです。

 

 この問題は、これから、ユダヤ人が教会に加わって来る時、再燃することでもあるようですが、初代教会においても、人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、割礼のあるなしの問題ではなく、イエスをキリストと信じ受け入れることによることが確認されて行ったのだそうです(使徒15:1~21)。

 

 十字架刑で処刑され、三日目に墓から復活したイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただき、〔父である神〕と思いを一つにして生きる、その生き方が天の御国まで持って行ける唯一のもの、なのだそうですから。

今日も。

 

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