風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

慈しみとまこととは、互いに出会い、正義と平和が互いに口づけする御国で

主を畏れる人に救いは近く、

慈しみとまことは出会い、

正義と平和は口づけする。詩85:10、11 

 

 私たちは義の宿る新しい天と地とを、

神の約束に従って待ち望んでいるのです。Ⅱペテロ3:13

 

 フィリピ書2:1~5

 フィリピ書1:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/14;金)

 

 慈しみ、恵みとまこととは、互いに出会い、正義と平和とは、互いに口づけするのだそうです。

新しい天と地では。

 

 その神の御国の到来を待ち望んでいるのですね。

約束のことばに従って。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、自分自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとして死亡手続を済ませてくださり、

受け入れる者にもう一人の救い主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

 

 そして、受け入れる者は、この方の満たしの中にあって、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、心に置いてくださるのだそうです。

 

 それで、受け入れる者は、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きるようにしていただけるのだそうです。

 

 受け入れる者は、〔父である神〕と思いを一つにしておられる〔御子である神〕、イエスの思いの中にもいる者としてくださって、

励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを持つ者ともしてくださり、

喜びに満たされ、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心が合わせられ、志を一つにしていただけるのだそうです(ピリピ2:1~2)。

 

 自分が神のひとりのようになり、他の人より優れた者にならないと気が済まない、自己中心や虚栄を、死んだ者から出て来た思いとして(ロマ6:11、コロサイ2:20、3:3)、横に眺めながら、

へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思い、

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みるようにしていただけるのだそうです(ピリピ2:3~4)。

 

 それで、イエスが私たちを迎えに、もう一度、来られるその日には(Ⅰテサロニケ4:16~17)、私たちは、葉ばかり茂って実が一つもない、いちじくの木のようではなく(マルコ11:13)、イエスが遣わされた〔聖である霊〕と呼ばれる方による義の実に満たされている者ともしてくださるのだそうですね(ピリピ1:11)。

今日結ぶ、その実に。

 

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