風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

牧者たち、民を導く立場にある人たちのためも、願いと執り成しと感謝とを

わたしはあなたたちに、

心にかなう牧者たちを与える。

彼らは賢く、巧みに導く。エレミヤ書3:15

 

 願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。

王たちやすべての高官たちのためにもささげなさい。

私たちが常に信心と品位を保ち、

平穏で落ち着いた生活を送るためです。Ⅰテモテ2:1~2

 

 出エジプト記14:15~22

 フィリピ書3:12~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/24;月)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、

「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られ、

また、「彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(統治、管理)するように」と仰られて人を造られたのだそうです(創世記1:26)。

 

 〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、愛と尊敬のゆえに、自由意思で、自発的に、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、

そのように、〔父である神〕を愛し、自由意思で、自発的に、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者をとの願いにおいて人を造られ、

その一つになった思いをもって、地を、地に生きる者を支配(統治、管理)するようにと。

 

 ですから、牧者、民を導くものとして立てられた者は、神と一つ思いになって、神の御思いを実現していく者として立てられているものなのでしょうね。

 

 それで、その人たちが、そのあるべき姿で役目を実行できるようにと、願い、執り成し、感謝をささげなさいと勧めておられるようです。

 

 

 モーセも、自分の力でイスラエルの民を救おうとしたときは、民に退けられたのだそうですけれど(出エジプト2:11~14)、

ミデヤンの地に逃れ、失意のうちに、羊を飼う40年を過ごす中で、自分の力を取り去られ、ただ、神の御思いが成ることを求めて行動する者とされて、

今度は、神から遣わされてエジプト王の前に立つ者とされたようです(出エジプト3、4章)。

 

 それで、自分にはそんなことができる何の力もない事を感じながら、

でも、天の神、主の言われるとおりに、手を海の上に差し伸ばすと、

天の神、主が働かれて、海の水が分かれ、

イスラエルの民は海の真ん中の、乾いた地を進んで行けるようになったのだそうです(出エジプト14:15~22)。

 

 

 私たちも、自分の力に余ることの前に立つとき、自分の力の無さ、自分の可能性のほうを見て、躊躇し、退くものですけれど、「でも、お言葉ですから」(ルカ5:5)と、神の御思いが成ることを目指して、前に向かって踏み出してみるとき(ピリピ3:13)、天の神、主の御力の現れを見ることができるのだそうです。

 

 私たちが祈っても、日本の国の政治を行っている人たちが変わるなど、考えられない、とも思いますが、

でも、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、その人たちのためにも、ご自身と思いを一つにしていくようにと、願い、執り成すようにと仰られるのですね。

今日も。

 

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