風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

手の幅ほどの、この短い人生において

ご覧ください。
与えられたこの生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでも、
すべて空しいもの。
詩39:6

 

わたしがお願いするのは、

彼らを世から取り去ることではなく、

悪い者から守ってくださることです。ヨハネ17:15

 

 黙示録3:1~6

 使徒17:16~34(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句7/29;土)


 私たち、定規を持たないで、物の長さを測るとき、
指を広げ、小指の先から親指の先までで計ることがありますが、
ユダヤでは閉じた手の幅で測ったようです。

ダビデ王は言います。
人生は、天の神、主の御前では、その手の幅ほどのもの、と。

その、短い人生を、
エスは、明日は、いよいよ十字架に架かり死刑になる、との前夜の弟子たちのとの最後の夕食の席で、
弟子たちを守ってくださるようにと、〔父である神〕に祈られたのだそうです。


その、手の幅ほどの人生をどう生きるか。

 

エスは、サルデスにある教会に対して、
「わたしは、あなたの行いを知っている。
あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
目を覚ましなさい。
そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。
わたしはあなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
だから、あなたがどのように受け、また聞いたかを思い出しなさい。
それを堅く守り、また悔い改め(方向転換し)なさい。
もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。
あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない」
とおっしゃられたのだそうです(黙示録3:1~3)。

 

パウロは、アテネのアレオパゴスで、言ったのだそうです。

アテネの人たち。私はあなたがたが宗教心にあつい方々だとみております。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、
手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、
人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった方だからです。
神はひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と、その住まいの境界をお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
私たちは、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今は、どこででもすべての人に悔い改め(方向転換)を命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくために日を決めておられるからです。
そして、この方を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:22~31)と。


 天の神、主は、私たちにも、どのように受け、どのように聞いたのかを思い出し、
そこに、しっかりと立っていてほしいのでしょうね。
今日も。

 

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