風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

相続権を持つ子、ご自身の家族としてくださって

あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者。神の家族である。エフェソ書2:19(7/30の週の聖句)

 

主の神殿、主の神殿、主の神殿という、
むなしい言葉により頼んではならない。
お前たちの道と行いを正しなさい。
エレミヤ書7:4~5

 神の国は言葉ではなく
力にあるのです。Ⅰコリント4:20

 

ヨハネ6:1~15
 詩21(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句7/30;Ⅴ日)


 私たちは、以前は異邦人であり、
無割礼の者で、キリストから離れ、イスラエルの国籍から除外され、
約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない者でした。

しかし、以前は遠く離れていた私たちも、キリスト・イエスの中にあることにより、
キリストの十字架で流された血によって近い者としていただけて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕のみもとに近づくことができるようにしていただけるのだそうです。
他国人でもなく、寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国民、神の家族に。

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、バビロン軍を用いて、イスラエルを打ち、人々をバビロンへ捕らえ移そうとされたとき、
エルサレムの人たちは、ここには主の神殿があるから、異邦人であるバビロン軍が入ってくることなない、と、言っていたのだそうです。

ちょうど、かつての日本が、日本は神国、神風が吹いて、戦争に負けることはない、と言っていたように。

 

それに対して、天の神、主は、エレミヤを通して言われたのだそうです。
「主を礼拝するために、この門に入るすべてのユダの人々よ。主のことばを聞け。
イスラエルの神、万軍の主はこう仰せられる。
あなたがたの行いと、わざとを改めよ。そうすれば、わたしはあなたがたをこの地に住ませよう。
あなたがたは、「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」と言っている偽りのことばを信頼してはならない。
もし、ほんとうに、あなたがたが行いとわざとを改め、
あなたがたの間で公義を行い、在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、
罪のない者の血をこの所で流さず、
ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
わたしはこの所、わたしがあなたがたの先祖に与えたこの地に、とこしえからとこしえまで、あなたがたを住ませよう」(エレミヤ7:2~7新改訳)と。

 

しかし、この時のイスラエルの人々も、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」であって、
エレミヤを通しての神のことばに聞こうとせず、
自分の理性の判断の善しとするところに従って、「主の宮があるから」と言い続け、
エジプトに頼り、他の神々を拝む道から離れようとはしなかったのだそうです。

そして、ついに、城門は破られ、頼みにしていた神殿は火で焼かれ、
主だった人々はバビロンへ引いて行かれることになったのだそうです。

 

神の国は言葉ではなく力にある」のだそうですから。
神のことばは、人間の思想の産物のように、ことばだけで終わるものではなく、
事実となって現れることばなのだそうですから。

 

 

エスが、ガリラヤ湖の向こうの、人里から離れたところに行かれたとき、
大ぜいの人の群れがイエスに着き従って行ったのだそうです。

 

エスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、
ピリポに「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と言われ、
少年が持っていた大麦のパン五つと小さい魚2匹を、感謝をささげてから、人々にほしいだけ分け与えられ、

男だけで5千人ほどいた彼らが十分食べた後、残ったパン切れを集めると12のかごがいっぱいになった(ヨハネ6:1~13)、そのように。

 

そのときも、人々は、天の神、主に聞こうとせず、自分の理性の判断による善しと思うところに従って、イエスを王にするため、イエスを無理やり連れて行こうとしたのだそうです(6:15)。

 

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
エスの十字架刑での処刑を、私たちの、この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊の処刑としてくださって、
私たちを処刑が完了している者、死んだ者としてくださって、
エスを通して〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、私たち一人一人に思っていてくださるご自身の御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。
エスが王として(詩篇21)、再び来られる(使徒1:11、Ⅰテサロニケ4:16、ゼカリヤ14:4~5、黙示録19:11)
その日に向かって。 

この新しい週も。

 


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