風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

罪に対しては死に、義によって新しく生きる者に

わたしは一日のうちにこの地の罪を取り除く。ゼカリヤ書3:9

 キリストは十字架にかかって、
自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。
私たちが、罪に対して死んで、
義によって生きるようになるためです。
Ⅰペトロ2:24

 ヨハネ6:47~56
 使徒18;1~22(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句7/31;月)


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
エジプトを出たイスラエルの民に、律法というかたちでご自身の御思いを示し、
人間が自分の力で、ご自身と思いを一つにし、心を一つにすることができるかどうかを実験されたようですね。
そして、イスラエル1500ほどの歴史において、
誰一人、義と認められる者はいないことを実証されたうえで、
私たちのそむきの罪を取り除く救い主としてダビデの切り株からの一つの若枝を来させ(ゼカリヤ3:8)、
この方が、自らの身に、私たち、すべての人間のそむきの責任を担って、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 

そして、受け入れる者の、その人自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、この、イエスの十字架刑での処刑に 合体させてくださって、処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
そのうえで、受け入れる者にもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、その心に置いてくださって、受け入れる者の心に、ご自身と同じ思いがあるようにしてくださり、受け入れる者がご自身と心を一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。

 

 

ちょうど、パン(食物)を食べると、そのパン(食べた物)が私たちのからだの中にあり、また、私たちのからだは、食べた物によってできていて、ある意味で、食べた物の中にあって、食べた物と私たちのからだが一体になっているように、イエスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕の御思いを内に持つ者は、その部分において、神と心を一つにする者、神と一体にされた者にしていただけるのだそうです(ヨハネ6:47~56)。

 

 パウロが、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置かれる御思いのままに生きていったように(使徒18:1~22)。

私たちも、置いていただいたそれぞれの場所で、御思いに聞きながら生きる新しい生き方を。

今日。

 

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