風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

城壁も超え、勝利へと

私の神によって、私は城壁を超える。詩18:30


 世に打ち勝つ勝利
それは私たちの信仰です。
Ⅰヨハネ5:4

 マタイ22:1~14
 使徒18:23~19:7(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句8/1;火)


 天の神、主、その道は完全。

主のみことばは純粋、

主はすべて彼に身を避ける者の盾。
この方によって、目の前に立ちはだかる高い堅固な城壁も飛び越えることができるのだそうです。


この方に信頼し、この方の御思いについて行くところに私たちの勝利があるのだそうです。

水と血とによって来られた方(Ⅰヨハネ5:6)、
エスが十字架刑での処刑を受け、
私たちを贖(あがな)うための代価として血、ご自身のいのちを差し出してくださったことによって、
受け入れる者に来られる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、私たちが〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして、新しく生きるようにしてくださるのだそうですから。

 

この福音、イエスによるうれしい知らせが広まり始めた頃、まだ、バプテスマのヨハネの教えしか知らない人たちもいたのだそうです。
モーセをとおして示された神の律法を自分の力、努力で守り、神さまに認められようとする、古い契約にとどまっている人たちが。

 

 パウロが、エペソに来たときにも、12人ばかりの、そのような弟子たちに出会い、
「(バプテスマの)ヨハネは、自分の後に来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改め(方向転換)のバプテスマを授けたのです」と説明し、
これを聞いた人たちが、主イエスの御名によってバプテスマを受け、
パウロが彼らの上に手を置いたとき、〔聖である霊〕と呼ばれる方が彼らに臨まれ、
彼らは、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのとおりに異言を語ったり、預言をしたりしたのだそうです(使徒19:1~7)。

 

 この、十字架にかかられ、処刑されたイエスの処刑に合わせていただいて、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしていただき、
三日目に死人の中から新しいからだに復活し、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを心に置いていただいて、
〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして生きるようにしていただけるという新しい契約は(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
前もって選ばれていた人たちが、気にもかけず、受け取ろうともしなかったので、
今は、すべての人に、良い人にも悪い人にも差し出され、受け取るよう、招かれているのだそうです(マタイ22:1~10)。

自分の正しさによってではなく、イエスが十字架刑での処刑を受けてくださって着せてくださる、イエスの正しさによって(マタイ22:11~14)。

 

 私たちも、この方が心に置いてくださる御思いに信頼し、ついて行って、

目の前に立ちふさがる城壁も超えて、

御思いを実現していけるのだそうです。

今日も。

 

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