風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべての人の主、万物の造り主として

あなたの贖い主、
あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる。
わたしは主、万物の造り主。
自ら天を延べ、独り地を踏み広げた。
イザヤ書44:24

 世界と万物を造られた神は天地の造り主であり、
手で造った神殿には住まわれない。
また何か足りない事でもあるかの様に
人の手によって仕えられる必要もない。
使徒17:24~25

 使徒10:(21~23)24~36
 使徒19:8~22(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句8/2;水)

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちの贖い主、
ご自分の独り子である方を人として人の世に遣わし、
この方を人間の手に渡して十字架刑で処刑し、
この方のいのちを私たち人間のそむきの罪の贖い(あがない、買い戻し)の代金として支払って、
私たちを買い戻してくださる方。

 それは、この方が私たち一人一人を、御思いのままに、母親の胎内でかたちづくられた方だから、なのだそうです。
母の胎のうちで私たち一人一人の内臓を造り、組み立てられたとき、
私たちの骨組みはこの方の目から隠れてはいなかったのだそうです。

そればかりか、この方は胎児の私たちを見られ、
この方の書物に私たち一人一人のすべてが、書きしるされたのだそうです。
私たち一人一人のために作られた日々が、
しかも、その1日もないうちに(詩篇139:13~16)。

 

その方が言われているのだそうです。

「わたしは主、万物の造り主。
わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。
ほかの神々でわたしと事を共にする者はいなかった」と。

 

 だから、その、神である方が、人の手で造った神殿に住んだり、
人の手によって仕えられたりする必要はない、というのですね。

 

 それで、神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神は受け入れられる方。
イエス・キリストをすべての人の主とし、
イエス・キリストによってすべての人を救おうとされ、
すべての人に平和を与えてくださる方なのだそうです(使徒10:24~26)。

 

 

 パウロは、エペソ(今のトルコにある町)で、2年の間、主のことばを伝え続けたので、
この地方にいる人たちは皆、主のことばを聞いたのだそうです。
そして、パウロを通して、病人をいやされ、驚くべき奇蹟を行われたので、
主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなっていったのだそうです。

 

 これらのことが一段落すると、パウロは、御霊の示しにより、マケドニアとアカヤを通った後でエルサレムに行こうとしたのだそうですが、
そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言ったのだそうです(使徒19:8~21)。

 

 実際、パウロは、そのあと、エルサレムに上り、そこで捕らえられて、2年ほど牢に入れられたのち、ローマに護送され、ローマ皇帝の裁判を受けることになったのだそうですが。


 天の神、主は、すべての人の贖い主、主として、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私たち一人一人の心にも、御思いを置いてくださり、
受け入れる者をご自身と思いを一つにし、こころをひとつにする者にしてくださって、
共に、御業を実現する者ともしてくださるのだそうです。

私たちと栄光を共にしようと。

今日も。

 

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