風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

和解を受け入れ、帰っておいで、と

神はノアに言われた。
「わたしは、あなたたちと、後に続く子孫と、あなたたちと共にいるすべての生き物と契約を立てる。
今後、洪水が起こって地を滅ぼすことは決してない。」
創世記9:10、11

 神は、和解の言葉を
私たちにゆだねられたのです。
Ⅱコリント5:19

 Ⅰペトロ3:8~17
 使徒22:22~30(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句8/11;金、祝)

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られて、私たち人間を造られたのだそうです(創世記1:26)。
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕が、
互いに愛し合うゆえに、
自由意思で、自発的に思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、
その一つに加わる者にと。

けれども、最初の人アダムは、この、神の「われわれのかたち、われわれに似せた」、その、神との一つの場に留まることを止めて、もっと素晴らしい者に、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとしたのだそうです。

天の神、主との一つになる場を捨て、天の神、主に対立、対抗して、
自分の理性の善悪の判断、自分一人で善悪を判断して、その自分の思いのとおりに生き、
自分が最高の者になって(イザヤ14:13~14)、他のすべてのものを自分の判断に従わせようとする者に。

 

そのように、最初の創造の目的から外れた、「的外れ」になった私たち人間を、天の神、主は、ゲヘナエルサレムのごみ焼却場)で、生ごみとして廃棄処分することを望まず、
なお、大切に思ってくださって、救い主を送り、
最初の、創造の目的、「われわれのかたち、われわれに似せた」ものに回復しようとしていてくださるのだそうです。

救い主を人の世に送るに際して、神は、私たち人間が言うであろう二つのことを想定されたようですね。

その一つは、「私たちは、悪い者であっても、その中の、一番いい者から人類を造り直せば、良くなりますよ」、という言い分。
二つ目は、「私たちだって、その気になりさえすれば、あなたの言うことくらい守って見せますよ。その気になれば、ちゃんとやれますよ」と。
「だから、私たちに救い主など、あなたの救いなど必要ありません」と。

 

 人が地にふえ、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く(創世記6:5)のを見られた神は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ、そして仰せられたのだそうです。
「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。
わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ」(創世記6:6~7)と。


それで、天の神、主は、地を洪水で滅ぼし、その時代の人の中で一番正しく、神と共に歩んでいたノアとその家族、そして、すべての動物の一つがいずつを箱舟に入れて洪水から守り、
この、「今後、洪水が地を滅ぼすことはない」との約束のことばを与え、
このノアから新しい人類を始められたのだそうです。
けれども、その結果が今の世の中なのですね。

 

 二つ目の言い分についても、
神は、カルデヤのウルにいたひとりの人、アブラハムを選び、この人からイスラエル民族をつくり、
このイスラエル民族と契約を結んで、律法というかたちで御思いを示し、
この人間の歴史の中で、その気になって、この律法を守り、ご自分と心を一つにしてくれるかどうかを実験されたようです(出エジプト19:8、24:3、7)。


 そして、イスラエル民族1500年の歩みを通して実証されたその結果は、
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者になった。
善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~11、詩54:1~3、53:1~3)、
という結果だったのだそうです。

 

 こうして、天の神、主は、人には、救い主が必要であることを人間の歴史の中で実証されたうえで、
御子である方を「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に送り、
この方が、およそ33歳の頃、すべての人間の身代わりとして十字架刑で処刑し、
すべての人のそむきの罪の処罰が終わっているものとしてくださったのだそうです。


そして、私たち、すべての人に、ご自身と和解して、帰って来るように、
ご自身の子、家族となって心を一つにして生きる者になってほしいと、
和解の言葉を私たちにゆだねていてくださるのだそうです。


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
この和解を受け入れ、ご自身に帰って来た者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、ご自身の御思いを心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いになり、ご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、私たちの心にも、イエスと同じに、
互いに心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、憐れみ深く、謙遜な思いが来るのだそうです。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、
祝福を受け継ぐために召された者として、祝福を与えていく、その思いが。

私にも、今日。

 

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