風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

お心一つで、

わたしは
苦難の中から呼び求めるお前を救った。詩81:8

 ハンセン病を患っている人が、イエスの所に来てひざまずいて願い、
「御心ならば、私を清くする事がおできになります」と言った。
エスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、
「よろしい。清くなれ」と言われると、
たちまち病は去り、その人は清くなった。
マルコ1:40~42

 エフェソ書5:15~20
 使徒24:1~21(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句8/15;火)

天の神、主は、私たちが苦難の中から呼び求めるとき、救ってくださる方、なのですね。
当時、不治の病であったハンセン病を患っている人がイエスの所に来て、ひざまずいてお願いしたのだそうです。
「お心一つで、私を清くしていただけます」(新改訳)と。

天の神、主は、「わたしはあるという者」(在りて在る者〔文語訳〕出エジプト3:14)と名乗られる方、
あろうと思われるとおりにあることがおできになる方、なのだそうです。

このハンセン病の人が、「御心ならば(お心一つで)」、
「あなたがそう思ってくださりさえすれば、私のこのハンセン病は治ります」と言ったのは、
エスに向かっての、「あなたは、この『わたしはあるという者』と名乗られる方ですから」、という、信仰告白でもあったということなのでしょうね。

そして、イエスが「わたしがそう思う」と仰ってくださると、
ハンセン病はその人から去った、のだそうです。


 ですから、私たちも、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方がどう思っておられるのか、に心を向け、よく悟るように、というのですね。
この方と心を合わせ、同じ方向に進んでいけるように。

酒に酔い、この世のことに心が満たされて行くのは、御心が感じられなくなる方向のようです。
むしろ、「御霊に満たされ」、御霊の御思いの中に思いを潜めて、
また、詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、
主に向かって心から歌い、また賛美する中で、
御心を敏感に感じられるようにしていただきなさいと勧められているようです(エペソ5:15~20)。


パウロも、同国人から捕らえられ、殺されるところを、エルサレムを治めていたローマ兵の千人隊長によって救い出され、
そして、カイザリヤにいたローマ総督ぺリクスのもとに護送され、
ぺリクスの裁判での弁明において、イエスを証しする(使徒24:1~21)、
そのような中でも、主の御心に思いを向け、
「あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証ししなければならない」と言われる(使徒23:11)主の御心に思いを潜めていたのでしょうね。
私たちも、今日も。

 

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