風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

イエスが来られる、その日までは

主は地上をすべて治める王となられる。
その日には、主は唯一の主となられ、
その御名は唯一の御名となる。
ゼカリヤ書14:9

 キリストは神の身分でありながら、
神と等しいものである事に固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
フィリピ書2:6~7

 マタイ23:1~12
 民数記6:22~27(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/27;月)

神の身分である方、〔御子である神〕の位にある方が、その位に固執しようとは思わず、
神のあり方を捨て、ご自分を無にして、しもべ、仕える者の姿をとり、
人間と同じ者になられて、人の世に来て下さり、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われたのだそうです。

 それで、〔父である神〕は、この方を、死者の中から復活させ、
高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです(ピリピ2:6~9)新改訳)。

今から2000年ほど前、旧約聖書で預言されているとおりに、
私たち、すべての人間の「的外れ」、そむきの責任を自分の身に負って十字架刑での処刑を受けるために来られたこの方は、
今度は、正義と公正とあわれみとをもたらすため、地上のすべてを治める王として地の上に立たれるのだそうです。

ゼカリヤ書には次のように預言されています。
「見よ。主の日が来る。その日、~~

わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。
町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。
町の半分は捕囚となって出て行く。
しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

主が出て来られる。
決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。
山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。~~

私の神、主が来られる。
すべての聖徒たちも主とともに来る。
その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
これはただ一つの日であって、これは主に知られている。
昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。

 その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる
主は地のすべての王となられる。
その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる」ゼカリヤ14:1~9新改訳)と。


私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5:22)、〔生まれた時からの私〕という霊のままでは、
自分を高めよう、善いものになろう、神のことばのとおりに生きようと思っても、
努力すればするほど、あの、律法学者、パリサイ人たち(マタイ23:1~12)のように、
人の目を気にし、人の評判を得ようとするばかりの、言うばかりで実行しない者であるしかないのだそうです。
だから、この、私自身である、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んでしまったものとしていただき、
このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、私たち一人一人に思っておられる、〔父である神〕御思いを心に置いていただいて、
この、心に来た〔父である神〕の御思いを自分の思いとして生きる。
心を一新していただき、新しい霊によって生きる者にしていただけるのだそうです。

そのとき、私たちも、イエスがそうであったように、
一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにし、
何事も自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思い、
自分のことだけではなく、他の人のことも考える(ピリピ2:1~4)思いが心に来て、
周りに神の祝福を届ける者にもしていただけるのだそうです。

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、あなたに平安をあたえられますように」(民数記6:24~26)と。

主が来られるその日まで。
今日も。

 

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