風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

折れかけている葦を折ることなく、消えかかっている燈心を消すこともなさらない方が

彼は傷ついた葦を折ることなく、
暗くなっていく灯心を消すこともない。
イザヤ書42:3(9/3の週の聖句)

 彼らは神の律法の書を翻訳し、
意味を明らかにしながら読み上げたので、
人々はその朗読を理解した。
ネヘミヤ記8:8

 パウロは、自分の借りた家に丸2年間住んで、
訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、
イエス・キリストについて教え続けた。
使徒28:30~31

 マルコ7:31~37
 詩119:49~56(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句9/3;Ⅰ日)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、イザヤを通して言われます。

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、その教えを待ち望む」(イザヤ42:1~4新改訳)と。

この方は、柔和で、忍耐深い、寛容な方。
折れかけている葦を折ってしまうようなこともなさらず、
消えかかって暗くなっている燈心を消してしまうこともされない方なのだそうです。
〔神のことば〕として来られたこの方を、島々も、地の果ての人も待ち望むのだそうです。

神のことばを聞こうとせず、自分の理性の判断に従って、善しと思うところを成し、
ついに、バビロンの捕囚とされたユダ、イスラエルの人々。
70年の時が過ぎ、解放の時が来て、
バビロンに替わったペルシャのクロス王によってエルサレムへの帰還が許され、
周囲の国々から妨害される困難の中で神殿が再建され、
また、ネヘミヤの指導によって城壁が再建されたのですね。
人々は自分たちの町々にいたのだそうですが、
第七の月に、いっせいにエルサレムに集まり、水の門の広場で、
律法の書(創世記~申命記)を聞くことを願ったのだそうです。
そこで、エズラをはじめ、レビ人たちが、律法の書を朗読し、解き明かしたので、
民はこれを理解したのだそうです。

神の律法を自分の力で行うことによってではなく、イエス・キリストによって義とされることを地中海世界に伝えていたパウロ
そのことで、エルサレムで、律法を自分の力で行って神の前に義とされようと熱心な同族ユダヤ人から「この男は生かしておくべきではない」と殺されそうになり、
ローマ軍によって捕らえられ、ローマ皇帝カイザルの法廷で裁かれるため、囚人としてローマに護送されたのですが、
この時は、牢獄ではなく、自費で自分の家を借りることを許され、
丸2年の間、まったく自由に、何の妨げもなく、尋ねてくる人にイエスによる救いを伝えることができたのだそうです。
それで、番兵として来ていた皇帝の親衛隊全員にも、
また、裁判を通して皇帝の側近にもイエスのことが伝わったのだそうです。

ガリラヤ湖のデカポリス地方でのこと、
エスは、人々が、耳が聞こえず、口がきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願ったので、
その人だけを群衆の中から連れ出し、
その両耳に指を差し入れ、それからつばきを出して、その人の舌にさわられ、
天を見上げ、深く嘆息して、
その人に「エパタ(開け)」と言われたのだそうです。
すると彼の耳が開き、舌のもつれがすぐに解け、はっきり話せるようになったのだそうです。
エスは、このことをだれにも言ってはならないと命じられたのですが、
彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらしたのだそうです。

このようにして、ユダヤ地方で起こったイエスの出来事は、
言いふらされ、地の果てにまで伝えられて来たのだそうです。

 

 そして、私たちの人生の旅の家でも、私の歌となり、
夜には、天の神、主の御名を思い出す(詩篇119:54~55)出来事となっているのですね。
今日も。

 

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