風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

熱情と力強い御業、火を投じるために来られて

どうか天から見下ろし、
輝かしく聖なる宮からご覧下さい。
どこですか、
あなたの熱情と力強い御業は。
イザヤ書63:15

 イエスの言葉:
わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。
その火が燃えていたらと、どんなに願っている事か。
しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。
それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむ事だろう。
ルカ12:49~50

 イザヤ書57:15~19
 民数記20:1~13(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/9;土)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の熱情と力強い御業。
それは、この地上に火を投じ、
投じられた火が、冬枯れの野原を焼き尽くすように燃え上がること、のようですね。

 そして、火である、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られるためには、
〔御子である神〕、ご自身が、「女の子孫」(創世記3:15)として、人の世に生まれ、
すべての人の、すべてのそむきの責任をとって、十字架刑での処刑を受けられる、
その洗礼を〔御子である神〕ご自身が受けなければならなかったのだそうです。


 天の神、主はイザヤを通して言われます。
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方がこう仰せられる。

「わたしは、高く聖なるところに住み、
心砕かれて、へりくだった人とともに住む。
へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。
わたしから出る霊と、わたしが造った魂が衰え果てるから。
彼のむさぼりの罪のために、わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、
彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう」(イザヤ書57:15~19)と。

 

 その熱情のゆえに、〔御子である神〕であられる方が、人となって人の世に来られ、
自ら、すべての人の、すべてのそむきの責任を負って、
「神に反逆した者」として十字架刑での処刑を受けられ、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られる道を開き、
「火が燃えている」状態に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心のうちに〔父である神〕の御思いを置いて、
私たちのうちに〔父である神〕の御思いがあり、
また、私たちの思いを〔父である神〕に執り成し、
私たちが自分の思いのすべてを〔父である神〕に話していくようにしてくださって、
私たちの思いが〔父である神〕の中にあるようにしてくださり、
私たちが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と一つ心になるようにしてくださり(ヨハネ17:21~23)、
私たちも、〔父である神〕が私を通してしようと思っておられることをしていく者にしてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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