風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

真夏の日照りの中での、冷たい水の川のように

遠くから流れる冷たい水が涸れることがあろうか。
しかし、わたしの民はわたしを忘れた。エレミヤ書18:14~15

 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしとともに食事をするであろう。
黙示録3:20

 ヤコブ書2:5~13
 民数記22:21~41(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/15;金)

イスラエル地方には「わじ」と呼ばれる、雨が降ったときにだけ水が流れ、普段は水のない川があるのだそうです。
けれども、遠くから、レバノン山から流れて来る雪解け水の川が涸れることはないのだそうです。

その「わじ」のように、ご自分の民、イスラエルの人々はわたしを忘れ、
周辺の国々の神々に香をたいている、と
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は嘆いておられるようです。


〔御子である神〕の、天での栄光の位を後にして、人として、人の世に降られた方イエス
30歳のころまで、ナザレという小さな片田舎の村で貧しい大工として親に仕えられ、
バプテスマのヨハネの活動を契機に、3年半ほどの、キリスト(救い主)としての活動をされた後、
私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けられた方。

 墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死人のうちより新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中で、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス(使徒1:2~11)。

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、
その目は、燃える炎のようであり、
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、
その声は大水の音のよう、顔は強く照り輝く太陽のようである方(黙示録1:14~15)。
そのイエスが言われるのだそうです。
「わたしは、あなたの心の戸口に立って、あなたの心の戸をノックしている」と。
「わたしの声を聞いて、ドアを開けてくれたら、わたしは、中に入って、あなたといっしょに食事をしたい」と。

「だれでも」なのだそうです。
金持ちだからとか貧しいからとか、立派な人だからとかみすぼらしい人だとかでのえこひいきなしで、
分けへだてなしで(ヤコブ2:5~9)、「だれでも」なのだそうです。

このイエスのお心を受けて、このイエスから派遣されて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来下さるのだそうです。
日照りの暑さの中にあって、遠くから流れて来る、涸れることのない冷たい水の川のように、
涸れる(中断する)ことなく、受け入れる者のうちに来て下さり、
私たちを上からおおってくださるのだそうです。

 

楽しい食事の語らいの中で、お互いの思いが分かり合えて、心が一つになるように、
受け入れる者の心に〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださり、
私たちの思いが〔父である神〕の思いの中にあるようにしてくださって、
私たちを、〔父である神〕と思いを一つにしていく者に(ヨハネ17:21~23)してくださるのだそうです。

 

 そして、私たちが、迷い出て、〔父である神〕のお心を求めず、
自分の理性による善し悪しの判断で、自分の思いのとおりにしていこうとするとき、
立ちふさがって、「わたしのことば(思い)と一つになろうよ」と、
〔父である神〕に向き直らせてくださるのだそうです。

あの、バラムの時のように(民数記22:21~41)。

 

 「わたしがあなたをわたし自身のように愛しているから、
あなたも、あなたの隣り人をあなた自身のように愛するようになるよ」と(ヤコブ2:8)。
今日も。

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