風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

喜びの歌と共に朝を迎えられるようにと

主は、ひととき、お怒りになっても、
命を得させることを御旨としてくださる。
泣きながら夜を過ごす人にも、
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
詩30:6

 あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
エフェソ書2:8

 フィリピ書4:8~14
 ルカ13:6~9(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/25;月)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たち一人一人に命を得させたいと思っていてくださる方なのですね。
それで、私たちのそむきをお怒りになることがあっても、それは、ひととき、つかの間のことなのだそうです。
夕暮れには涙を宿す、あるいは、泣きながら夜を過ごすようなことがあっても、
朝明けには喜びの叫びがあるように、
喜びの歌と共に朝を迎えるようにしてくださるのだそうです。

 天の神、主は、私たちが、地のちりから造られたものであり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分の力では、そこから、自分を変えることができないものであることをよくご存じなのだそうです。

 それで、ご自身の側で、私たちを贖う、買い戻す計画を立ててくださり、
その、ご計画の時が満ちて、〔御子である神〕が、「女の子孫」として人の世に来て下さり(創世記3:15、ヨハネ1:14)、
私たちに代わって、私たちの「的外れ」の責任をとって、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 〔父である神〕は、この墓に葬られたイエスを、全能の御力をもって、三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語らせたのち、
オリーブ山で、弟子たちの見守る中、天の、ご自身の右の座に帰らせられたのだそうです。

 そのイエスが、今度は、ご自分に代わって、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。
そして、この方が、私たちの心に〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いをおいてくださるのだそうです。
それで、私たちは、この方によって、〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって生きる、
愛し合う関係に入れていただけるのだそうです。

このことは、恵みによること、何の働きもなく、何の資格もない、いただけるはずのない者に、タダで、賜物、プレゼントとして与えていただけるのだそうです。
だから、私たちは、この方の言葉に信頼して、もらうだけ、受け取るだけ、でいいのだそうです。

 〔父である神〕は、私たちにも、
「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めてほしい」(ピリピ4:8)とも、思っておられるのだそうですから。
今日も。



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