風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私たちが被った苦難のすべてを、小さい事と見なさないでください。

私たちの神よ、
偉大にして力強く畏るべき神よ、
忠実に契約を守られる神よ、
私たちが被った苦難のすべてを、
取るに足らないことと見なさないでください。
ネヘミヤ記9:32

 盲人は叫んだ。
ダビデの子よ、憐み給え。」
エスは立ち止まり「呼びなさい」と言われた。
人々は彼に「安心して、立ちなさい。お呼びだ」と言った。
マルコ10:48~49

 Ⅰテモテ6:(3~5)6~11a
 ルカ13:10~17

  (ローズンゲン々の聖句9/26;火)

自分たちの思うままに外国の神々を拝み、たび重なる天の神、主からの呼びかけにも答えようとしなかったイスラエルの民。
天の神、主は、民をこれ以上放置できなくなったようですね。
イスラエルの民は、ついにバビロン軍によって国を滅ぼされ、
主だった者はバビロンに捕囚とされたのだそうです。

 そして、70年、ついに、天の神、主のご計画の時が満ちて、
ペルシャの王、クロスによって帰還を許され、ゼルバベルを中心に神殿再建を果たしたのだそうです。

けれども、それからおよそ70年、エルサレムの城壁は崩されたままで、民は周辺国の侮りと苦難の中にあり、
それを聞いた、ペルシャの王アルタシャスタの献酌官であったネヘミヤは、断食して祈り、
王に願い出てエルサレム帰還を許され、エルサレムの城壁再建を果たしたのだそうです。

そのネヘミヤが天の神、主に訴えているのですね。
アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちの先祖と、あなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さい事とみなさないでください」と。


エスがエリコを通られているとき、道ばたで物乞いをしていた盲人、パルテマイは、
人々の制止を振り切って「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び続け、
エスから見えるようにしていただいて、イエスについて行く者になったのだそうです。

また、イエスは、安息日に会堂に来ていた、18年間、腰が曲がって、全然伸ばすことができない女性を呼び寄せ、
「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれ、
腰が伸びるようにされたのだそうです(ルカ13:10~17)。


敬虔、それは、大きな叫び声と涙とをもって願うことができる、天の神、主との関係のようです(ヘブル5:7)。
私たちは金持ちになりたい者であり、敬虔を利得の手段としてしまうものでもあります。
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利得を受ける道、なのだそうです。

 使徒パウロは、弟子のテモテに書き送っています。
「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
衣食があれば、それで満足すべきです。
金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。
これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい」(Ⅰテモテ6:6~11新改訳)と。


 思い煩い、心配事、願いも、思いっ切り、天の神、主に申し上げ、知っていただきながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、御思いを心に置いていただき、
御思いを私の心としながら、進みたいですね。
今日も。

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