風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

永遠に不変であり、この方以外に、誰も閉じることなく、誰も開けることがない出来事が、

すべて神に業は永遠に不変であり、
付け加えることも除くことも許されない。
コヘレト3:14

 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、
この方が開けると、だれも閉じることなく、
閉じると、だれも開けることがない。
黙示録3:7

 コヘレト4:(4~7)8~12
 ルカ13:18~21(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/27;水)

 伝道者(コヘレト)の書(新改訳)4章7節~12節には次のように記されています。

「私は再び、日の下に空しさのあるのを見た。
ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。
それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽きることがない。
そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。
これもまた、むなしく、つらい仕事だ。

ふたりはひとりよりもまさっている。
ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。
倒れても起こす者がいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。」


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が決められ、実行された御業は、変えられることがないのですね。

〔父である神〕の御心に従って、〔御子である神〕が、「女の子孫」として(創世記3:15)、
ダビデの子孫である処女マリヤの胎を通して人の世に来られ、
すべての人の、すべての「的外れ」の責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けられ、
すべての人を処刑済み、死んだ者としてくださったことは。

そして、このイエスの死を自分の死としていただいた者に、
新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来て下さることは。

この方が受け入れる者の心に、
〔父である神〕が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者を〔父である神〕と同じ思いを思う者としてくださり、
一つ心になって、
エスがそうであったように、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく、
〔父である神〕と行動を一つにする者にしてくださることは。


天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、最初に、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られたのだそうですから(創世記1:26)。

そして、十字架に架かられる前夜の、弟子たちとの最後の晩餐の席で、イエスは言われたのだそうですから。
「父よ。あなたが私におられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな(わたしたちと)一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。私たちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つであるためです」(ヨハネ17:21~22)と。

だれも変えることができない、この方が閉じられるまでは、だれも閉じることができないこと、として。


 そして、この、私たちが天の神、主と心を一つにして生きるようになる関係は、
どんどん大きくなり、全体に広がっているのですね。
野菜のうちで最も小さい種、針の先でちょっと突いたくらいの大きさのからし種が、成長すると木になり、空の鳥が枝に巣を作るほどになるように。
また、パン種が、粉全体を膨らませるように(ルカ13:18~21)。

 私たちの心のうちにも。
今日も。

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