風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

その子供を大事に育てる母親のように

かわいい息子を懲らしめる父のように、
主は愛する者を懲らしめる。
箴言3:12

 私達は、あなたがたからも他の人達からも
人間の誉れを求めず、
キリストの使徒としての権威も主張しませんでした。
私達は、母親がその子供を大事に育てる様に、
あなたがたを愛する者となったからです。
Ⅰテサロニケ2:6~8

 ルカ10:38~42
 ルカ13:22~30(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/28;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たち、人間を、
息子をかわいいと思う父親のように、
母親が子どもを愛するように、かわいいと思い、愛し、大事に思っていてくださる方のようですね。

 それで、私たちに必要なときには私たちを懲らしめ、訓練もし、
また、私たちに、ご自身のすべてを与え切って、私たちを育ててくださるのだそうですね。

 イエスがベタニヤ村へ入られたとき、
マルタという女性が、喜んでイエスの一行を家に迎え入れたのだそうです。

 彼女はいろいろもてなしのことで気が落ち着かず、イエスに言ったのだそうです。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃって下さい」と。

 妹のマリヤは、イエスの足もとにすわって、イエスの言葉に聞き入っていたのだそうですから。
エスは、答えて言われました。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカ10:38~42新改訳)と。


エスが、エルサレムへの旅を続けておられると、
「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があったのだそうです。
エスは、人々に言われました。
「努力して狭い門から入りなさい。
なぜなら、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
家の主人が、立ち上がって、戸を閉めてからでは、外に立って、
『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、
もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。
『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」
だが、主人はこう言うでしょう。
『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
 ~~
 人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓につきます。
いいですか。今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるからです」(ルカ13:22~30新改訳)と。


よく聞いて、天の神、主が何を思っていらっしゃるのかを知り、
思いを一つにすることを求めてほしいとイエスは仰っているのでしょうか。
自分の理性の判断での「善し」とするところにしたがってする、もてなしや奉仕、敬虔、信仰の業は、もしかすると、土台がちがっているかもしれないのですね。
それを、イエスは、「不正」だと仰る。


「神のひとりのようになろう」とし、「善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)私たち自身の〔生まれた時からの私〕という霊を、
いよいよ立派にし、強くし、信仰深くしていく方向ではなく、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものと認め、計算して、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに聞いて、ついて行ってほしいのだそうですから(ガラテヤ5:24~25)。
愛され、愛されて。
今日も。

 

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