風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

人間の側の、努力への自信、自負が尽き果てたところで、

あなたの神、主が導かれた
この40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。
こうして主はあなたを苦しめて試し、
あなたの心にあること、
すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。
申命記8:2

 愚かな者としてではなく、
賢い者として、
細かく気を配って歩みなさい。
時をよく用いなさい。
エフェソ書5:15~16

 ルカ10:17~20
 黙示録12:7~12a(12b)
 ルカ13:31~35(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/29;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
エジプトを出たイスラエルの民が、すぐに約束の地に入るようにはされないで
(それは、イスラエルの民の不従順の故ではありましたが(民数記13章、14章)、
40年、荒野で生活するようにされました。

それは、苦しい出来事、困難な出来事に出会うことによって、
民の心にあることを表そうとされたようですね。

あのホレブの山、シナイ山で、民は、確かに、
「私たちはが仰せられたことを、みな行い、聞き従います」(出エジプト19:8、24:3、7)と答え、
神の民となる契約を結んだのです。

しかし、神と心を一つにして生きる場から離れ、
「神のひとりのようになろう」として、「善悪を知る者」になった(創世記3:5、22)人間の本心は、
「聞き従います」とのことばのとおりではなかったようですね。

天の神、主は、この荒野の40年の旅を通して、
そして、その後の800年ほどのイスラエルの民の歴史の中で、
人間は、神と心を一つにして生きることを求めないで、
自分の理性の善悪の判断で、自分の判断のままに生きる者であることを明らかにされたようです。

 

そして、イスラエルの民において、その、神に対する反逆が極まり、
これ以上放置するならば、民は滅びるしかないところまで来て、
民を懲らしめ、立ち返らせるために、バビロン帝国を用いてイスラエルを打たれる、
そのとき、天の神、主は、新しい契約の約束を与えられたのだそうです。

 

「見よ。その日が来る。
  ――主の御告げ――
その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。
わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。

――主の御告げ――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルと家と結ぶ契約はこうだ。

――主の御告げ――
わたしは、わたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31:31~33)と。

さらにまた、「わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、
あなたがたはすべての汚れからきよめられる。
わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
あなたがたに新しい心を与え、
あなたがたのうちに新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、
あなたがたに肉の心を与える。
わたしの霊をあなたがたのうちに授け、
わたしのおきてに従って歩ませ、
わたしの定めを守り行わせる。
あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、
あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」(エゼキエル36:25~28)と。

そして、このご計画の時が満ちて、
〔御子〕である方が、人となって、人の世に来られ、
およそ33歳の頃、エルサレム城外で十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、三日目の日曜日の朝、死者の中から新しいからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
オリーブ山で、弟子たちの見守る中、天の〔父である神」の右の座に帰られたのだそうです。
エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」と言い残して(使徒1:2~11)。

そして、その10日後のペンテコステ(五旬節)、
律法授与の記念日、出エジプトの時の契約締結の記念日に、
待ち望んでいた120人ばかりの弟子たちのところに、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
弟子たちは、この方が心に置いてくださる御思いのままに話し始めた(使徒2:1~4)のだそうです。

エルサレムで始まったこの出来事は、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てにまで広がり、
そのときからおよそ2000年を経た今の、東の果て日本の私たちにまで届いているのだそうです。

それで、今の時をよく用い、
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって心から歌い、賛美しながら、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方に満たされ、
心に〔父である神〕の自分に関わる御思いを置いていただいて、
自分の善し悪しの判断ではなく、
御思いによって生きるように(エペソ5:15~19新改訳)と勧められているようですね。

日夜、私たちを神に訴える告発者サタンとその手下の悪霊どもさえも従わせる権威の中で(ルカ10:17~20、黙示録12:7~12)。
今日も。

 

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