風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

もはや、死もなく、悲しみ、叫び、労苦もない、その日が

 主が民の罪を包み癒される日、
月の光は太陽の光になり、
太陽の光は7倍になり、7つの日の光となる。
イザヤ書30:26

 神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は共にいて、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。
黙示録21:3~4

 ロマ書4:18~25
 ルカ15:11~32(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/7;土)

 今の世界が、そのままずっと続くのではなく、
そういう日が来るのだそうです。

 それは、大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日、なのだそうですが、
また、天の神、主が民の罪を包み、いやしてくださる日でもあるのだそうです。
自然界も、贖われて、栄光に輝くようですね。

 今の天と地は過ぎ行き、新しい天と地が実現し、
神が人と共に住み、人は神の民となり、
100パーセント、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置かれる〔父である神〕の御思いで生きるようにしてくださり、
もはや死もなく、悲しみ、嘆きもないのだそうです。



 アブラハムは、望みえないときに望みを抱いて、天の神、主を信じたのだそうです。
およそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、
妻、サラの胎が死んでいることとを認めても、彼は、
「さあ、天を見上げなさい。
星を数えることができるなら、それを数えなさい。
あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)との神の約束を疑うようなことをせず、
神には約束されたことを成就する力があることを固く信じたのだそうです。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちも、
エスを死者の中からよみがえらせた方を信じる、
その信頼を義とみなしてくださるのだそうです。
確かに、イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
私たちが義と認められるためによみがえられたのだそうですから(ロマ4:18~25)。

 

 

 父の財産の生前贈与を要求し、
その財産を金に換えて、遠くの町に行き、
放蕩して、財産を湯水のように使い果たし、
食べる物もなく、みすぼらしく落ちぶれて帰って来た弟息子。
それをかわいそうに思い、走り寄って抱き、口づけして、
一番良い着物を着せ、
手に指輪をはめさせ、
靴をはかせ、
肥えた子牛をほふって祝宴をする父親のように、

 また、その父親を非難し、怒る、まじめにやって来たと自負する兄息子を、
「子よ。お前はいつも私といっしょにいる。
私のものは、全部おまえのものだ。
おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぼう」と
優しくさとす父親のように(ルカ15:11~32)、
天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑を通して、私たちも受け入れてくださり、
ご自分と思いを一つにし、心を一つにする者にして、
新しい世界を受け継ぐ者にしてくださるのだそうですから。

 その方を信頼し、約束を期待しながら、
〔父である神〕と思いを一つにする練習をしていくのですね。
アブラハムのように、私たち、今日も。

 

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