風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

間に合うもの、役に立つものにしていただけて

なぜ主の言葉を侮り、
わたしの意に背くことをしたのか。
サムエル記下12:9

 神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。
そこには、「主はご自分の者たちを知っておられる」と、
また「主の名を呼ぶ者は皆、
不義から身を引くべきである」と刻まれています。
Ⅱテモテ2:19

 雅歌8:4~7
 ルカ18:18~30(通読箇所) 
   (ローズンゲン日々の聖句10/18;水)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
預言者ナタンを通して、ダビデ王に言われたのだそうです。

イスラエルの神、主はこう仰せられる。
『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、
サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたに主人の家を与え、
あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、
イスラエルとユダの家も与えた。
それでも少ないというのなら、
わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。

 

それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、
わたしの目の前で悪を行ったのか。
あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、
その妻を自分の妻にした。
あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ』」(Ⅱサムエル12:7~9新改訳)、と。


彼ら(ヒメナオとピレト)は、真理からはずれてしまい、
復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。
それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、
それに次のような銘が刻まれています。
「主は、ご自分に属する者を知っておられる。」また、
「主の名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」

大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。
また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、
これらのこと(何の益にもならず、聞いている人々滅ぼすことになる、ことばについての論争、邪悪な無駄話
2:14、16)を離れるなら、
その人は尊いことに使われる器となります。
すなわち、清められたもの、主人にとって有益なもの、
あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、
きよい心で主を呼び求める人たちとともに、
義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
無知な思弁を避け、争ったりしないで、
むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい(Ⅱテモテ2:18~25)、と。


私たち、天の神、主に話していくことをせず、
天の神、主に願うことをせず、
この時のダビデ王のように、天の神、主をあなどり、
自分の理性の判断で、自分が判断した善し悪しに従って行動する者です。

 けれども、イエスの十字架刑での死を自分の死としていただき、
墓に葬られ、三日目に死者の中から、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方によって、心に、〔父である神〕が思っておられる御思いを置いていただいて、
その御思いについて行く生き方をする者は、きよめられた、

神がしようと思われる御業に間に合う、役に立つ者に
していただけるのだそうですね。
今日も。

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