風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

望みは、この方に置いて

主よ。何に望みをかけたらよいのでしょう。
私はあなたを待ち望みます。
詩39:8

 イエスは病の娘に言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい。」
ルカ8:48

 マタイ5:17~24
 エゼキエル書2:1~3:3(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/21;土)

 私たちは、自分の終わりを思うとき、自分のはかなさを知ることになります。
「私の一生は、神であるあなたの前では、ないのも同然です。
まことに、人はみな、盛んなときでも、まったく空しいものです」(詩篇39:4~5新改訳)と。

 けれども、私たち、自分自身に望みはかけられなくても、
天の神、主に望みをかけていいのだそうです。


 イエスが、会堂管理者ヤイロの家に向かっておられたとき、
大勢の人がひしめき合い、押し合いながらイエスについて行っていたのだそうですが、
そのとき、一人の女性が、イエスの衣の裾についているふさにさわったのだそうです。
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えて。

 この女性は、12年の間長血をわずらっていて、
多くの医者からひどい目に会わされて、
自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、
だれにも直してもらず、かえって悪くなる一方だったのだそうです(マルコ5:26)。

 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われたのだそうです。
その女性は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、
御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、
たちどころにいやされた次第とを話すと、
エスは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。
安心して行きなさい」と言われたのだそうです(ルカ8:43~48新改訳)。

私たちも、もう、何にも望みがかけられないときにも、
この方、天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方には望みがあるのだそうです。

 イエスは、求める者に、律法学者やパリサイ人の義、
神の律法を自分の力で守ろうとして努力している人の義にまさる義を
与えて下さるのだそうですから(マタイ5:17~24)。

 イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に、〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださり、
心のほうから、私たちが〔父である神〕と思いを一つにするようにしてくださり、
〔父である神〕が、私を通してしようと思われることをしていく者にしてくださるのだそうです。

 

 私たち、自分自身には望みがないまま、この方に望みを置いて、安心して、出かけて行っていいのだそうですから。
今日も。

 

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