風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

地の果てまで、告げ知らせ、届けてほしいと

喜びの声をもって告げ知らせ、
地の果てまで響かせ、届かせよ。
主は僕ヤコブを贖(あがな)われた、と言え。イザヤ書48:20

 御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、
全世界に宣べ伝えられる。
それから、終わりが来る。
マタイ24:14

 使徒14:8~18
 エゼキエル書8:1~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10/28;土)

 私たちは、今の世が、最初からずっとあって、
いつまでも変わらず、ずっと続くかのような前提でものを考えています。
けれども、この世界には、たしかに始まりがあり、そして、終わりが来るのだそうです。

イスラエルの民は、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、預言者を遣わし、
帰って来るよう、何度呼び掛けても、
自分の思う道を歩むことを止めなかったのだそうです。

 それで、天の神、主は、これ以上放置できなくなって、
王をはじめ、主だった者たちを捕囚とし、バビロンへ移したのだそうです。

 それにもかかわらず、エルサレムに残っていた民は、
エルサレムの神殿の中でさえも、ねたみの像や、はうもの、獣の像、タンムズというバビロンの神や太陽などを拝むことをやめなかったようです(エゼキエル8:1~18)。


パウロバルナバがルステラ(現在のトルコにある町)へ行った時のこと、
パウロの話を聞いている人たちの中に、
足のきかない、生まれつき足のなえた、歩いたことのない人が座っていたのだそうです。

 パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言うと、
その人は飛び上がって、歩き出したのだそうです。


 それを見た人々は、「神々が人間の姿を取って、私たちのところにお下りになったのだ」と言って、
ゼウス神殿の祭司は、雄牛数頭と花飾りを門の前に携えて来て、
二人に、いけにえをささげようとしたのだそうです。

それで、二人は、群衆の中に駆け込み、叫んで、これを止めさせたのだそうです。
「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。
そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、
天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、
福音(イエスによる喜びの知らせ)を宣べ伝えている者たちです。

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々が
それぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。
すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、
食物と喜びで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」と。


 そのようにして、2000年、
御国のこの福音は、全世界に宣べ伝えられて、あらゆる民へ証しされて来たのだそうです。
終わりに向かって。
エスが大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来られ、
天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めてくださるその日に向かって。
今日も。

 

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