風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ご自身と、心を寄り添わせながら歩んでほしいと

主がお前に求めておられるのは、
正義を行い、
慈しみを愛し、
神と共に歩むことである。
ミカ書6:8(10/29の週の聖句)

 アモスは言った。
「私は牧者である。
私はいちじく桑の木を作るものである。
ところが主は私を取り、
『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と、
私に言われた。」
アモス書7:14~15(口語訳)

 預言する者は、人に向かって語っているので、
人を造り上げ、
励まし、
慰めます。
Ⅰコリント14:3

 マルコ10:2~9(10~16) 
 詩69:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/29;Ⅴ日)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちが、最上のささげものをすること、多くのささげものをすること、
当時、他の宗教でやっていたように、自分の長子を焼いてささげるほどの
宗教的熱心を喜ばれる神ではなく、
公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって神と共に、ご自身と心を合わせて歩むことを求めておられる方なのだそうですね。

紀元前760年頃のこと、北イスラエル王国で、
「ヤロブアム王は剣で死に、イスラエルはその国から必ず捕らえられて行く。

(だから、神に立ち返るように)」と預言するアモスに、
イスラエル王国ベテルの祭司アマツヤは言ったのだそうです。
「先見者よ。ユダの地へ逃げて行き、その地でパンを食べ、その地で預言せよ。
ベテルでは二度と預言するな。
ここは王の聖所、王宮のある所だから」と。

それで、アモスはアマツヤに答えたのだそうです。
「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。
私は牧者(羊を飼う者)であり、いちじく桑の木を栽培していた。
ところが、主が群れを追っていた私を取り、主は私に仰せられた。
『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ』と」(アモス7:10~15)、と。


今は、〔御子である神〕イエスが、人の世にあって、人となって、すべての人のそむき、「的外れ」の責任をご自身の身に負って、すべての人の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たちの処罰が終わっていることにしてくださっている時なのだそうです。

それで、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちのところに来られても、
処罰は終わっているものとみなしてくださり、
私たちは滅びないで済むのだそうです。

〔父である神〕は、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、この方によって、私たちの心に、ご自身が思っておられる御思いを置いてくださり、
私たちがご自身と同じ思いを持つようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)。

 

それで、農夫であったアモスが用いられたように、私たちも、
〔父である神〕が、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与えよう」と思われるとおりに、
その言葉を取り次いでいく者にもしていただけるのだそうです。
神と思いを一つにしながら歩む者、
神がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。
この新しい週も。

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