風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

しみやしわの何一つない、聖く傷のない花嫁として

あなたたちは人を侮るように神を侮っているが、
神に追及されてもよいのか。
ヨブ記13:9

 神の言葉は生きており、
力を発揮し、
どんな両刃の剣よりも鋭く、
精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、
心の思いや考えを見分けることができるからです。
ヘブル書4:12

 エフェソ書5:25~32
 エゼキエル書12:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/1;水)

 私たちは、往々にして、自分を神の弁護者の立場に置いて、
神に代わって神を弁護するようなことをしています。
自分の聖書の知識や神学、自分の信仰経験などをもとにして、神はああだ、こうだと。

 しかし、それは、往々にして、自分の理性による判断、自分の考えであって、
神ご自身の思いとは、ずれている、外れていることが多いのでしょうね。
自分の考えを言い立てているに過ぎないことが。

ちょうど、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
七日目は、あなたの神、主の安息である。
あなたがたはどんな仕事もしてはならない」(出エジプト20:8~10)との聖書の言葉によって、
エスが、安息日を定めた側にいる方が、
安息日に病人をいやしすのを非難したユダヤ人の指導者たちのように。

 自分の考えで、「神はああだ、こうだ」と言って自分を説得しようとする友人たちに、
ヨブは言います。
「神の顔を、あなたがたは立てるつもりなのか。
神の代わりに言い争うのか。
神があなたがたを調べても大丈夫か。
あなたがたは、人を欺くように、神を欺こうとするのか。
もし、あなたがたが隠れて、自分の顔を立てようとするなら、
神は必ずあなたがたを責める」(ヨブ13:7~10新改訳)と。

神の前で隠れおおせるものは何一つなく、
神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されているのだそうです。
たましい(精神)と霊との分かれ目さえも。

 私たちが言っていることが、
自分の考えなのか、神の御思いなのかが明らかにされ、
私たちは、この神に対して弁明することになるのだそうです(ヘブル4:12~13)。

 けれども、私たちには、
もろもろの天をとおられた偉大な大祭司イエスがいてくださるのだそうです。
エスは、罪は犯されませんでしたが、
すべての点で、私たちと同じように、試みに会われので、
私たちの弱さを分かってくださり、に同情してくださる方なのだそうです。

 このイエスの、大祭司としてのとりなしによって、
私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づいていいのだそうですから(ヘブル4:14~16)。

 イエスは、私たちを愛し、私たちのためにご自身をささげて、
私たちの身代わりになって、
私たちの「的外れ」責任をとって十字架刑での死刑を受けてくださったのだそうです。

そして、ご自身で、
私たちを、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く傷のない花嫁として、
ご自分の前に立たせてくださるのだそうですから。
ご自分と一体になるものとして(エペソ5:25~27)。

今日も。

 

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