風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

心おののき、心騒ぎながらも

心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。」
イザヤ書35:4

 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は
真実であり、
そのまま受け入れるに値します。
Ⅰテモテ1:15

 Ⅰコリント14:26~33
 エゼキエル書16:1~22(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句11/2;木)

 私たち、心おののき、心騒ぐとき、天の神、主は言われます。
「強くあれ。雄々しくあれ。恐れる必要はない」と。
「わたしがあなたと共にいるから、わたしのほうに目を向けよ」と。
「神は来て、私たちを救ってくださるから」、と。

 神に、そうしなければならない責任があるわけではなく、
私たちに、そうしていただく資格があるわけでもなく、


ただ、天の神、主が、
「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」(Ⅰテモテ2:4)からなのだそうです。

パウロは弟子のテモテへ宛てた手紙に書き送っています。
「私は、以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。
それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
私たちの主の、この恵みは、
キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、
ますます満ちあふれるようになりました。
『キリスト・イエスは、罪びとを救うためにこの世に来られた』ということばは、
まことであり、そのまま受け入れるにあたいするものです。
私はその罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:13~15)と。

 私たち人間は、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方によって、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「私たちが一つであるように、彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~23)ように、
と願われて造られたものなのだそうです。

 そして、この天地、宇宙、この自然界を私たちの住まいとして与えていただき(イザヤ45:18)、
存在していくのに必要なもの、生きていくのに必要なもののすべてを与えていただき、
美しく装っていただき、
繁栄と栄えを与えていただいているのだそうです(エゼキエル16:1~14)。

ところが、私たち人間は、自分の美しさ、繁栄により頼み、心高ぶり、
「神のようになり、善悪を知る者」になろうとして(創世記3:5、22)、
天の神、主を無視し、
自分の理性の善悪の判断のままに、
自分の好むものを神とし、
これを拝み、これに仕え、
自分を造られた方を捨て、背を向ける者になってしまっているのだそうです(エゼキエル16:15~22)。

天の神、主は、そのような私たち人間をなお、愛し、あわれみ、
滅びてしまうことを望まず、
ご自分の側で買い戻そうとしておられるのだそうです。

 今からおよそ2000年ほど前、
独り子である神が、ダビデの町ベルレヘムで、
女の子孫(創世記3:15)として、
ダビデ家の子孫、処女マリヤの胎を通して人の世に宿られ、
ユダヤの片田舎、ナザレ村で貧しい大工の息子として育たれ、
およそ、33歳のころ、エルサレム城外のゴルゴダ(どくろ)と言われている場所で、
十字架刑での死刑を受けてくださって、
ご自分のいのちを、私たちの贖(あがな)い、買い戻しの代金として支払ってくださったのだそうです。

〔父である神〕は、このイエスの処刑を、
私たち、すべての人間の処刑と見なしてくださり、
私たち自身である、私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を
処刑済み、死んだものと手続きしてくださったのだそうです。

そして、この、「死」を受け取った者に、
新しく〔聖である霊〕と呼ばれる方が来て下さるのだそうです。
この方が、私たちの心に
〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、
〔父である神〕と思いを同じくし、一つ心になって、
新しい霊で生きるようにしてくださるのだそうです。

それで、これらのことをもらった、受け取った者たちの集まりでは、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いのままに、
異なった言葉(異言)で話したり、預言をしたりするようになったのですね(使徒2:1~4)。

それで、パウロは、これらの異言とその解き明かし、預言を、
神の御思いのとおりに
みんなの徳を高めるために秩序をもってするように、と勧めているようです。
「神は混乱の神ではなく、平和の神」だから(Ⅰコリント14:26~33)、と。

 天の神、主は、ご自分がしようと思われることを、
私たちが一つ心になってしていくようにと願っておられるのだそうですから。
心おののき、心が騒ぐとしても。
今日も。

 

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