風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

聞くには早く、語るに遅く、怒るには遅いように

武具を帯びようとする者が、
武具を解く(戦いに勝利した)者と同じように
勝ち誇ることはできない。列王記上20:11

 私の愛する兄弟たち、
よくわきまえていなさい。
だれでも、聞くのに早く、
話すのに遅く、
また怒るのに遅いようにしなさい。
人の怒りは神の義を実現しないからです。
ヤコブ書1:19~20

 Ⅱコリント10:1~6
 エゼキエル書20:30~44(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/7;火)


 主よ、
我々と結んだ契約を心に留め、
それを破らないでください。
エレミヤ書14:21

 我らのために救いの角を、
ダビデの家から起こされた。
主は我らの先祖を憐れみ、
その聖なる契約を覚えていてくださる。
ルカ1:69、72

 創世記13:5~12(13~18)
 エゼキエル書33:10~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/8;水)


 アラムの王ベン・ハダテは、彼の全軍、32人の王と、馬と戦車とをもって、
サマリヤを包囲して攻め、
使者たちを遣わして、イスラエルの王アハブに言わせたのだそうです。
「あなたの銀と金は私のもの。
あなたの妻や子供たちの最も美しい者も私のものだ。
サマリヤのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、
神々がこの私を幾重にも罰せられるように」と。

 そこでイスラエルの王は答えて言ったのだそうです。
武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」と(Ⅰ列王20:1~11新改訳)。

私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)〔生まれた時からの私〕という霊は、心、高ぶる者であり、
自分で何事かを出来たと思い上がる者、なのですね。
けれども、私たちに代わって、十字架刑での処刑を受けてくださったイエスを通して来て下さる、
〔聖である霊〕が私たちの心に置いてくださる思いは、
「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそい」ものなのだそうです。
私たちの義憤は、神の義を実現するものではないのだそうですから。

 だから、〔生まれた時からの私〕という霊から来る思い、
「様々の思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり、すべてのはかりごと」(Ⅰコリント10:5)を、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて「処刑された者」、「死んだ者」から出て来た思いであることを認め、
この思いはイエスに差し出し、イエスの足もとにかなぐり捨てながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして生きるといいののだそうです。
主が約束してくださっているとおりに。
今日も。

 

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