風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分の実態を認める、心の貧しい人を招いて

エレミヤの言葉:
わが民の破滅のゆえに
私は打ち砕かれ、
嘆き、恐怖に襲われる。
ギレアドに乳香がないというのか。
そこには医者がいないのか。
エレミヤ書8:21、22

 イエスの言葉:
医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく
病人を招いて悔い改めさせるためである。
ルカ5:31、32

 ルカ22:49~53
 エゼキエル書34:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/10;金)

医者がいるのに、薬があるのにいやしてもらえない。
牧者が自分に任された羊を養わず、
弱った羊を強めず、
病気のものをいやさず、
傷ついたものを包まず、
迷い出たものを連れ戻さず、
失われたものを捜さず、
かえって力づくと暴力で彼らを支配し、自分を肥やしている(エゼキエル34:1~8)。

それで、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は仰るのですね。
「わたしは失われたものを捜し、
迷い出たものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
病気のものを力づける。
わたしは肥えたものと強いものを滅ぼす。
わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」(34:9~16)、と。

エスは、自分を捕らえに来た大祭司のしもべを、
ペテロが剣で打ち、その耳を切り落としたのを、
「やめなさい。それまで」と言われて止めさせ、
手を伸ばして、耳にさわっていやされたのだそうです(ルカ22:49~51)。

エスは言われます。
「わたしが来たのは、丈夫な人、正しい人を招くためではなく、
病人をいやし、
罪びとを招いて、神に立ち返らせるためだ」、と。

そして、霊の貧しい者、救いを、助けを求めて来る者の
そむき、「的外れ」の責任をご自身で負ってくださって、
ご自身が受けてくださった十字架刑での処刑に合わせて、
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を死刑にされたもの、
処罰が済でしまっている者、
死んでいる者と手続きしてくださるのだそうです。

そのうえで、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方の働きで、
私たちの心に〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、〔父である神〕と思いを同じくし、
心を一つにし、
〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていく者に、
行動を一つにする者にしてくださるのだそうです。
いつも一緒にいて、存在を一つにする者とも。

 だから、イエスがおられるところに
私たちもいることにもしてくださるのだそうです(ヨハネ12:26)。
今日も。

 

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