風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

一人の王、一つの心になって

あなたたちは
私たちの神、主と
心を一つにしなければならない。
列王記上8:61

 主に結び付く者は
主と一つの霊となるのです。
Ⅰコリント6:17

 ヘブル書13:1~9b
 エゼキエル書37:15~28(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/15;水)

エスは言われました。
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)。


 「その時、あなたがたはわたしが何であるか、
また、わたしが自分からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話していることを、知るようになる」(ヨハネ8:28)。

「わたしが話していることは、
父がわたしに言われたとおりを、
そのままに話しているのです」(ヨハネ12:50)。

 

「御霊は自分から語るのではなく、
聞くままを話し、わたしの栄光を現します。
わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16:13~14)。

 

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
わたしたちが一つであるように、
彼らも一つであるためです」(ヨハネ17:21~22)、と。


〔父である神〕は、考えられたのですね。
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
わたしたちが一つであるように、
わたしたちと一つになるものを造ろう、と。

 そして、「人が、ひとりでいるのは良くない。
男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる」(創世記1:18、24)、と。

それゆえに、わたしたち人間が、
神である主と、心を一つにして生きることは、
創造の目的にかなっていること、正しいことなのですね。

 それで、神である主に背を向け、
神と心を一つにすることを止め、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」、自分の理性を神とし、
自分を自分の王とし、
自分の理性の、善し悪しの判断によって生きる者になっている(創世記3:5、22)、
わたしたち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
〔父である神〕は、
御子イエスが受けられた十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑済みのもの、死んだ者とし、

受け入れる者に、もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
受け入れる者が、「主と一つの霊」から来る思いで生きるようにしてくださるのだそうです。

 夫と妻が、本来的には一つ心になるように。
それで、言われるのですね。
「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。
寝床を汚(けが)してはいけません」(ヘブル13:4)、
一人の男と一人の女が結婚によって一体となっている、
それをこわしてはいけません、と。


天の神、主は言われます。
「神である主はこう仰せられる。
見よ。わたしは、北王国、イスラエルの諸部族と、
南王国、ユダ部族を合わせて、
わたしの手の中で一つの国とする。

 わたしはイスラエル人を、その行っていた諸国の民の中から連れ出し、
彼らを四方から集め、彼らの地に連れて行く。
わたしが彼らを、その地、イスラエルの山々で、一つの国とするとき、
ひとりの王が彼ら全体の王となる。
彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの王国に分かれない。

 彼らは二度と、その偶像やいまわしいもの、
またあらゆるそむきの罪によって身を汚(けが)さない。
わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、
彼らをきよめる。

わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。
これは彼らとのとこしえの契約となる。
わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、
わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼキエル37:15~27)、と。

 

 私たちにも、
神に対抗して、自分で自分の王になっている、
〔生まれた時からの私〕という霊を、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせていただいて、
死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
天の神、主と一つの霊になり、
〔父である神〕と一つ心になって生きる者が受け継ぐ
御国の約束があるのですね(黙示録21)。
今日も。

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