風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

行いが、神にあってなされる生き方を

憐れみ深く、貸し与える人は良い人、
裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
詩112:5

 人にしてもらいたいと思うことを、
人にもしなさい。
ルカ6:31

 ヨハネ3:17~21
 Ⅰテサロニケ2:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/21;火)

情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り扱う人は幸せ、なのだそうです。
この世を終えて神の前に立つとき、彼の言葉は支えられるのだそうですから。

エスは言われたのだそうです。
「自分が、人にしてもらいたいと思うとおりに、人にもしなさい」と。
私自身は、多くのものを持っているわけではありませんが、
今日の生活に困るわけでもありません。
けれども、貸し渋る者、与えたくない者です。

神が御子(イエス)を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、
御子によって世が救われるため、なのだそうです。
御子を信じる者はさばかれない。
信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでに、さばかれている。
そのさばきというのは、
光が世に来ているのに、光よりもやみを愛し、光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、
光のほうに来ないこと、なのだそうです。
しかし、真理を行う者は、光のほうに来るのだそうです。
その行いが神にあってなされたことが明らかにされるために。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
御子イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものとしてくださり、
受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によってご自身の御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、
受け入れる者がご自身と一つ心になって生きる、
ご自身がしようと思われることをしていく者にしてくださるのだそうです。
それで、この新しい生き方をいただいていいる者は、
その行いが、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来た思いによってではなく、
神から来た思いによってなされていることが明らかにされるという、
そのさばきの日がうれしい、待ち遠しい日になるのだそうです。
今日も。

 

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