風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分の思いに死に、新しく、神の思いに生きるようにと

もしお前が正しいのなら、
顔を上げられるはずではないか。
正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、
お前を求める。
お前はそれを支配せねならない。
創世記4:7

 あなたがたは、
罪から解放され、
義に仕えるようになりました。
ロマ書6:18

 Ⅰペテロ1:13~21
 Ⅰテサロニケ5:12~28(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/28;火)

 

  【大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。サムエル記上2:
 神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます。ヘブル書1:2~3
 ヘブル書12:18~25
 Ⅰテサロニケ5:1~11
  (ローズンゲン日々の聖句11/28;月)】

 

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)と願われて創造された最初の人、アダムとエバ。
彼らは、その、天の神、主と思いを同じくし、心を一つにしていく場に留まることをせず、
天の神、主のようになろう、
神の位よりももっと上の位に座る者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選び、
創造の目的から「的外れ」の存在になってしまったのだそうです(創世記3:5、22)。

そして、その二人から生まれたカイン。
彼も、この「的はずれ」の性質を受け継いでいたのだそうです。
不完全なものから、完全なものは生れない、ということでしょか。

それで、カインは、自分の努力の結果である、自信作の農作物、
自分が「善し」と判断するものを、
神へのささげものとして持って来たのだそうですが、
天の神、主は、これに目を留められなかったのだそうです。

 そして、弟のアベルが、
「あなたが、私に預けられた羊が、こんなかわいい子を産みましたよ」と、
神の恵みをささげた、そのささげ物に目を留められたのだそうです。

それで、カインは、ひどく怒って顔を伏せていたのだそうです。
そこで、神である主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
その、怒って顔を伏せているカインに仰せられたのだそうです。
「なぜ、憤(いきどお)っているのか。
なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。
だだし、あなたが正しく行っていないのなら、
罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4:1~7新改訳)と。

けれども、カインは、自分の、その、「的外れ」になっている思いを治めることができないで、
その思いのままに、弟アベルを野に連れ出して襲いかかり、殺してしまったのだそうです(創世記4:8)。

私たちも、このアダムとエバの子孫であって、
カインと同じように、天の神、主と思いを一つにしようとしないで、
自分の理性の善悪の判断のままに生きる者、
これを治めることのできないでいる者、のようです。

そのような私たちを、
天の神、主は、この「的外れ」から解放し、
義に仕える者、
神と心を一つにして生きる者にしてくださっているのだそうです。

 御子である方を、人間イエスとして、
約束の「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に派遣し、
すべての人の身代わりとし、
すべての人間の「的外れ」の責任をこの方に負わせて、
この方がおよそ33歳のころ、
この方を、ユダヤ人の指導者のねたみとローマ兵を用いて十字架刑で処刑されたのだそうです。

 そして、私たちを、このイエスに合わせられた者として、
十字架刑で処刑されたもの、死んだものとしてくださっているのだそうです


 そのうえで、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、
この方によってご自身の、
私たち一人ひとりに思っておられる御思いを私たちの心に置き、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって生きるようにしてくださっているのだそうです。
「自分は罪に対しては死んだものであり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きたものだと思いなさい」(ロマ6:11)、と。

それで、〔父である神〕の御思いを心に置いていただくとき、私たちも
「心を引き締め、身を慎み、
イエス・キリストの現れのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望む」希望を持ち、
以前の無知であったときの欲望に従わず、
召してくださった聖なる方にならって聖なるものとなることを願う心にもしていただけるのだそうです。
人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を「父」と呼ぶ者として(Ⅰペテロ1:13~21)。

天の神、主は、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、
弱い者を助け、すべての人に寛容な方。
悪をもって悪に報いないで、いつも善を行ってくださる方。
私たちを全く聖なるものとしてくださり、
イエス・キリストの来臨のとき、責められることのないように、
私たちの霊、たましい、からだを完全に守ってくださる方なのだそうですから。

私たちに、いつも喜んでおり、
絶えず祈り、
すべてのことに感謝する思い、
御霊の働きを待ち望み、
預言の言葉を大切にし、
悪を避け、良いものを堅く守っていく思いも心におこして下さるのだそうです。
今日も。

 

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