風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

高ぶり、おごり、高慢が、つまずき、破滅に先立って

痛手に先立つのは驕(おご)り、
つまずきに先立つのは高慢な霊。箴言16:18
 実際には何者でもないのに、
自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、
その人は自分を欺(あざむ)いています。
自分の行いを吟味してみなさい。
自分にだけは誇れるとしても、
他人に対して誇ることができないでしょう。ガラテヤ書6:3~4
 ヘブル書13:10~16
 Ⅱテサロニケ2:13~17(通読箇所)  
  (ローズンゲン日々の聖句12/1;金)

立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。エレミヤ書25:5

 悔い改めにふさわしい実を結べ。ルカ3:8

 黙示録21:10~14、21~27
 Ⅱテサロニケ3:1~18(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/2;土)
 破滅し、痛手を負うようなことの前には、高ぶり、驕りが先立っており、
つまずき倒れることには、高慢が先立っているのだそうです。

 神に聞き、神と心を一つにしていく場からはずれて、
神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている私たち人間は、
自分を立派な者、ひとかどの者、
神のひとりにでもなったかのように思い、
造り主である、天の神、主が備えられたものの中で生きていながら、
まるで、自分の力だけで生きていけているかのように、
思い高ぶっているのだそうです。

 だから、自分をよく吟味し、
自分一人の力で生きていけているのではないことを認めて、
私たちが生きていくために必要なもののすべてを用意してくださっている
造り主を認めていくことが知恵の初めだと言われるわけのようです。

 イエスは、私たちが、〔父である神〕と
心を一つにして生きる生き方に立ち返れるようにと、
門の外に引き出され、
十字架刑での処刑、はずかしめを黙って受けてくださったのだそうです。

 だから、私たちもイエスのはずかしめを身に負って、
宿営の外に出て、
エスのみもとに行くようにと勧められているようです(ヘブル13:12~13)。

 イエスは言われました。
「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です。
枝がぶどうの木についていなければ、
枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、
わたし(イエス)にとどまっていなければ、
実を結ぶことはできません。
人がわたしにとどまり、
わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます(ヨハネ15:1~5新改訳)と。
 悔い改めにふさわしい実を結ぶ。
エスに合わせていただいて、
エスと一体のものとしていただき、
エスの十字架刑での処刑にも合わせていただいて、
私自身である〔生まれた時からの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとみなしていただいて、
私が新しく生きるための霊として、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣していただき、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の、〔御子である神〕イエスの、
御思いをわが思いとして生きる者は、
天の神、主に立ち帰った、豊かな実を結ぶようになるのだそうですから。
栄光の御国(黙示録21:10~14、21~27)に直接、
そのまま、つながる実を。
 今日も。
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