風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

約束の言葉のとおりに、実現してくださるのだそうですから。

主はとこしえに契約を御心に留められる。
千代に及ぼすように命じられた御言葉を。
詩105:8

 かつて書かれた御言葉は、
すべて私たちを教え導くためのものです。
それで私たちは聖書から忍耐と慰めを学んで
希望を持ち続けることができるのです。
ロマ書15:4

 Ⅱコリント1:18~22
 ゼカリヤ書11:4~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/18;月)

 紀元前520年頃のこと、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ゼカリヤを通して預言して言われたのだそうです。
「私は彼らに言った。
『あなたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。
もし、そうでないなら、やめなさい。』
すると彼らは、私の賃金として、銀30シェケルを量った。
主は私に仰せられた。
「彼らによってわたしが値積もりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ。」
そこで、私は銀30を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」(ゼカリヤ11:12~13)、と。

 そして、それから550年ほど後のこと、
当時のイスラエルの指導者であった祭司長たちは、
エスの12弟子の一人の、イスカリオテのユダに、
エスを売り渡す報酬として、銀貨30枚を支払ったのだそうです(マタイ26:14~15)。
そのあと、ユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、
銀貨30枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言ったのだそうです。
 しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と答え、
ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、
外に出て行って、首をつったのだそうです。
 祭司長たちは銀貨を取って、
「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言い、
相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした(マタイ27:3~7)のだそうです。

〔父である神〕は、約束の言葉を忘れてしまったり、なさる方ではないのだそうです。
神の約束はことごとく、イエスにおいて「しかり」となり(Ⅱコリント1:20)、
完了し(ヨハネ19:30)、実現しているのだそうですから。

〔父である神}はまた、確認の印を私たちに押し、
保証として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を私たちの心に与えていてくださるのだそうです。

この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって(エゼキエル36:25~28)、
新しい契約、
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らがみな、わたしを知る」(エレミヤ31:31~34)ようになるとの
約束の言葉が実現しているのだそうですから。

 私たちも、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、

「それは、父よ。
あなたがわたし
(イエスにおられ、わたし(イエスがあなたにいるように、
彼らがみな一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。
それは、彼らが全うされて一つとなるためです」(ヨハネ17:21~23)
と言われているとおりにしていただけるのだそうですから。
今日も。

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