風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

預言の言葉を、暗やみに輝くともし火として

主からヤコブへの言葉:
見よ、わたしはあなたと共にいる。
あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、
必ずこの土地に連れ帰る。
創世記28:15

 私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものです。
明けの明星が心の中に昇るときまで、
暗い所に輝くともし火として
この預言の言葉に留意していて下さい。
Ⅱペテロ1:19

 イザヤ書7:10~14
 マラキ書3:13~24(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/23;土・祝)

 赤い豆の煮もの1杯で、兄エサウから長子の権利を買い取ったヤコブ
今度は、父イサクが老齢で目が見えないことをいいことにして
長子が受ける祝福(相続の遺言)を奪い、
エサウの殺意を逃れて、母方の叔父ラバンのもとへ逃れる、
その旅の途中で天の神、主は、ヤコブにこのように約束されたのだそうです。

 そして、20年を叔父ラバンのもとで過ごしたのち、
約束の地に帰ることができたのだそうです。

 ペテロは、暗い所を照らすともし火として、
預言の言葉、神からの約束の言葉に目を留めているように、と勧めているのですね。
必ず成る、実現する約束なのだそうですから。

イザヤ書には、記されています。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。
見よ。処女がみごもっている。
そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」、と。

そして、それから700年ほどの時を経て起こった出来事を、
ルカは次のように記録しています(ルカ1:26~38新改訳)。

ところで、その
不妊で、老齢になっていたエリサベツが、御使いが告げたとおりにみごもった)
6ヶ月目に、
御使いガブリエルが、神から遣わされて
ガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。
この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、
名をマリヤと言った。
御使いは、入って来ると、マリヤに言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、
これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。
「こわがることはない。マリヤ。
あなたは神から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。
あなたはみごもって、男の子を産みます。
名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。
また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
 そこで、マリヤは御使いに言った。
「どうしてそのようなことになりえましょう。
私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えた。
聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。
それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。
ご覧なさい。
あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。
不妊の女といわれていた人なのに、今は6ヶ月です。
神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。
「ほんとうに、私は主のはしためです。
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」
こうして御使いは彼女から去って行った。

そして、住民登録のため出身地のベヅレヘムに帰っていたとき、
マリヤは月が満ちて男子の初子を産んだのだそうです(ルカ2:1~20)。


 マラキ書には記されています。

「見よ。
わたし(神)は、
主の大いなる恐ろしい日が来る前に、
預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、この心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(マラキ4:5~6新改訳)、と。

そして、そのエリヤの再来として、バプテスマのヨハネが現れたのですが、
ユダヤの指導者たちは、彼を認めようとせず、
彼に対して好き勝手なことをした(マタイ17:10~12)のだそうです。

このとき、イエスは、柔和な王として、
軍馬ではなく、まだ人を乗せたことのない子ろばに乗って
エルサレムに入城され、
すべての人の身代わりとなり、
すべてのそむきの責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受けられたのだそうです。

 天の神、主はさらに、マラキをとおして言われます。

「あなたがたは言う。
『神に仕えるのはむなしいことだ。
神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても、
何の益になろう。
今、私たちは高ぶる者をしあわせ者と言おう。
悪を行っても栄え、
神を試みても罰を免れる』と。
 そのとき、主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、
主の前で、記憶の書がしるされた。
『彼らは、わたしのものとなる。
わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
あなたがたは再び、
正しい人と悪者、
神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。
見よ。その日が来る。
かまどのように燃えながら。
その日、すべて高ぶる者は、わらとなる。
来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。
  ――万軍の主は仰せられる――
 しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、
その翼には、いやしがある。
あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。
あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。
彼らは、わたしが事を行う日に、
あなたがたの足の下で灰となるからだ』(マラキ3:14~4:3新改訳)、と。

 

この預言は、イエスが再び、オリーブ山に立たれ、
栄光の王として、
今は閉じられている黄金門からエルサレム入城なさる時に実現するということでしょうか。

 

ペテロは、預言の言葉に目を留めているようにと勧めているのですね。
天の神、主は、主につく者がどこに行ってもこれを守り、
ご自身がいる所に、いっしょにいるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。