風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

恵みの上に、さらに恵みを

人の生涯は草のよう。
野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消え失せ、
生えていた所を知る者もなくなる。

主の慈しみは
代々とこしえに
主を畏れる人の上にある。詩103:15~16、17


 私たちは皆、
この方の満ちあふれる豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受けた。
ヨハネ1:16

 イザヤ書63:7~14
 ヨハネ1:14~18(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句12/30;土)

 人の生涯、人の日は、草のよう、なのだそうです。
熱風が吹くと、草は枯れ、花は散り、
生えていた所を知る者もいなくなる、のだそうですから。

けれでも、
天の神、主の恵みは、
とこしえから、とこしえまで、
主を畏れる者の上にあるのだそうです。

天地創造の初めから、〔父である神〕とともにおられ、
すべてのものを造られた方。
その方が人となって、私たちの間に住まわれたのだそうです。
〔父である神〕の恵みとまことを、私たちに届けるために。
私たちは皆、この方の満ち満ちた豊かさの中から、
恵みの上に、さらに恵みを受ることができるのだそうです。
〔父である神〕の恵みとまことが、
エスによって、
この人間の歴史の中に実現したのだそうですから(ヨハネ1:1~3、14~18)。


イザヤはうたいます。

私は、主の恵みと、主の奇(くす)しいみわざをほめ歌おう。
主が私たちに報いてくださったすべてのことについて、
そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださった
イスラエルの家への豊かないつくしみについて。

主は仰せられた。
「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。

こうして、主は彼らの救い主になられた。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、
ご自身の使いが彼らを救った。
その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、
昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

 しかし、彼らは逆らい、
主の聖なる御霊を痛ませたので、
主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。

 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思いだした。
「羊の群れの牧者たちとともに、
彼らを海から上らせた方は、
どこにおられるのか。
その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、
どこにおられるのか。
その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、
彼らの前で水を分け、
永遠の名を成し、
荒野の中を行く馬のように、
つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、
どこにおられるのか。
家畜が谷を下るように、
主の御霊が彼らをいこわせた」(イザヤ63:7~14新改訳)、と。


 私たちも、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を忘れ、
自分で生きているように思い違いをする者ですけれど、
天の神、主を思い出し、
この方の恵みとまことに帰って行けますように。

今日も。