風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

恋い慕って、選んでくださり、栄光の御業を

主が心引かれてあなたがたを選ばれたのは、

あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。

あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。

ただ、あなたたちに対する

主の愛のゆえに選ばれたのである。申命記7:7~8

 

 神はこの世の

無力な者や見下されている者を選ばれました。

神の御前で誰も誇らせないためです。Ⅰコリント1:28~29

 創世記21:1~7

 ヨハネ1:35~51(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句1/4;木)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方はが、

多くの民の中からイスラエルの民を、

そして、多くの人の中から私たち一人一人を選び、

呼び出してくださったのだそうですが、

それは、私たちの素晴らしさや、善さによったのではなく、

むしろ、貧弱であり、

この世にあって無力なもの、見下されている者であったのに、

そのようなものをなお、愛し、憐れみ、

あえて選んでくださったのだそうです。

 

 だから、天の神、主が私たちを選んでくださったことにおいて、

私たちが、自分を誇ることは何一つないのですね。

 

イスラエルの祖先、アブラハムとその妻サラに子どものイサクが生まれたときも、
神の選びによる特別の介入があってのことだったのだそうです。
サラは子どもを産んだことがない女性でした。

アブラハムが99歳になったとき、
主はアブラハムに現れ、こう仰せられた。
「わたしは全能の神である。
あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
わたしはわたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。
わたしはあなたをおびただしくふやそう。
わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。
あなたは多くの国民の父となる。
あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。
あなたの名はアブラハムとなる。
わたしがあなたを多くの国民の父とするからである」(創世記17:1~5新改訳)。

そのあと、天の神、主は、アブラハムに現れたとき、仰せられたのだそうです。

「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。
そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」


 サラはその人のうしろの天幕の入り口で、聞いていた。
アブラムとサラは年を重ねて老人になっており、
サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑ってこう言った。
老いぼれになってしまったこの私に、何の楽しみがあろう。
それに主人も年寄りで。」


 そこで、主はアブラハムに仰せられた。
「サラはなぜ
『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年を取っているのに』
と言って笑うのか。
主に不可能なことがあろうか。
わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのもとに帰って来る。
そのとき、サラには男の子ができている」(創世記18;10~14)、と。

そして、主は、約束されたとおり、サラを顧みて、
仰せられたとおりに主はサラになさった。
サラはみごもり、
そして神がアブラハムに言われたその時期に、
老いアブラハムに男の子を産んだ。
アブラハムは、自分に生まれた子、
サラが自分に産んだ子をイサク(神は笑う)と名づけた。

そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、
八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳(サラは90歳)であった。
サラは言った。
「神は私を笑われました。
聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。
だれがアブラハムに、
『サラが子どもに乳をのませる』と告げたでしょう。
ところが私は、あの年寄りに子を産みました」(創世記21:1~7)。


 イエスは、
「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)と言われる
ナザレに育たれました。

 そして、エルサレムには、
律法を熱心に学ぶ、優秀な多くの若者がいたのに、
エスの選ばれた12弟子は、ガリラヤ地方の漁師だったり、
当時、取税人遊女のやからと言われて嫌われ、
さげすまれていた取税人だったりの、
律法を学んだことのない者たちだったのだそうです。

天の神、主は、ご自分の民として、あえて、
この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者を選ばれ、
そのような私たちに、
エスによって、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、ご自身の御思いを心に置き、
思いを一つにする者にし、
そのような私たちをとおして、
ご自身がしようと思われる栄光の御業を実現してくださるのだそうですから。

今日も。