風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

みこころが、天で行われるとおりに、私にも

天が地を高く超えているように、
わたしの道は、あなたの道を、
わたしの思いはあなたの思いを、
高く超えている。
イザヤ書55:9

 私は、
今は一部しか知らなくとも、
そのときには、はっきり知られているように
はっきり知ることになる。
Ⅰコリント13:12

 マタイ6:6~13
 申命記2:1~5(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/13;土)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
イザヤを預言者として立てて言われます。

「主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、叫び求めよ。
悪者はおのれの道を捨て、
不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。
そうそれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。
豊かに赦してくださるから。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
  ――主の御告げ――
天が地よりも高いように、
わたしの道はあなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55:6~9新改訳)、と。

 私たちは、自分の理性を信頼して、
自分の理性の判断に従って生きています。
それで、その判断の正しさは、
必要な正しい情報をどれだけ持っているかでちがってきます。

実は、その、私たちの判断のもとになっている情報は、
一部分でしかないのだそうです。
だから、一部分の情報をもとにして下した私たちの判断と、
すべての情報を持っておられる天の神、主の判断とは、
天が地をはるかに超えているように、違っていると、
天の神、主は仰られるのだそうです。

 けれども、
私たちがはっきり知られているように、
私たちもはっきり知る、
そのときも来るのだそうです。

 人となられた〔独り子なる神〕であるイエスは、
ご自身も、神として、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
〔父である神〕への愛と尊敬のゆえに、
自由意思で、自発的に、
その口から出す一つ一つの言葉においてさえ、
「自分からは何事もせず、
ただ父がしようとしているとおりをしておられる」方なのだそうです(ヨハネ8:28、12:50)。

それで、私たちにも、
もちろん、私たちの思いが、
〔父である神〕の御思いの中にあるようにしていただくために、
ありのままの、本心の思いをそのまま、御前に差し出し、
見ていただき、知っていただくよう、勧めてくださっていますけれど、

自分が、「神のひとりのようになり、
善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)、
その自分の理性による善悪の判断のとおりを実現するよう、
神に要求する生き方を、
死んだものとして、御前に投げ捨て、
「みこころが天で行われるように
地でも(私にも)行われる」ことを願っていく(マタイ6:10)よう勧めてくださっているようです。

 私たちの身代わりになって、十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中から
新しい霊のからだに復活されたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いについて行く生き方を(ガラテヤ5:25)。

 モーセにひきいられたイスラエルの民が、
40年の荒野での生活の後、
天の神、主の仰られるとおりに、
「北に向かって出発」し、
主が仰られるとおりに、
セイルに住んでいるエサウの子孫や
ロトの子孫であるモアブの人々から離れて進み、
仰られるとおりにゼレデ川を渡ったように(申命記
2115)。

私たちも。
今日も。