命の水を、私たちがただで飲めるよう、用意してくださって
主が彼らを導いて乾いた地を行かせるときも、
彼らは渇くことがない。 主は彼らのために岩から水を流れ出させる。イザヤ書48:21 渇いている者は来るがよい。 命の水の欲しい者は、価なしに飲むがよい。黙示録22:17 Ⅰコリント3;(1~3)4~8) 申命記10:10~22(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句2/1;木)
エジプトを出たイスラエルの民は、 彼らの不信仰のゆえに、 40年間、荒野の乾ききった地を旅したわけですけれど、 天の神、主が、彼らにいつくしみ深い霊を賜り、 彼らの口から天からのパン、マナを絶やさず、 彼らが渇いたときには、岩から水を出させて、水を与え、 彼らを養われたので、 彼らは何も不足することはなく、 彼らの着物もすり切れず、足もはれなかったのだそうです(ネヘミヤ9:⒛~21)。 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、 ご自身で、御子の命という代価を支払ってくださって、 私たちにも言われます。 「渇いている者は来なさい。 命の水が欲しい者は、それをただで受けなさい」と。 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、 〔父である神〕が、私たちのこの地上での生活を通して、 私たちひとりひとりを通してしようと思っておられることを、 その人の心に、その人自身の願いとし、志として立てさせ、 事を行わせてくださるのだそうです(ピリピ2:13)。 神である主を畏敬し、愛し、 心を尽くし、精神を尽くして神である主に仕え、 主の御思いのとおりの幸せな人生を歩みむようにと(申命記10:12~13)。 そして、それぞれの働きに従って 報酬を与えようと思っていてくださるのだそうです(Ⅰコリント3:8)。 「よくやった。良い忠実なしもべだ。 あなたは、わずかなものに忠実だったから、 わたしはあなたにたくさんのものを任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21、23)、と。 今日も。 |