風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

憐れみを受け、時宜にかなった助けをいただくために

主の言葉:
わたしを呼ぶがよい。
苦難の日、わたしはお前を救おう。
そのことによって、
はわたしの栄光を輝かすだろう。
詩50:15

 憐れみを受け、
時宜にかなった助けをいただくために、
大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブル書4:16

 ロマ書7:14~25a
 申命記25:1~16(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/16;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は、仰るのですね。
「苦難の日にわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめ、
私の栄光を輝かすことになる」、と。
エスが、大祭司として、
〔父である神〕の前に立っていてくださるのだそうですから。

大祭司であるイエスは、
私たちの弱さに同情できないような方ではないのだそうです。
罪は犯されませんでしたが、
すべての点で、私たちと同じように試みに会ってくださったのだそうですから。

ですから、私たちは、
憐れみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために、
大胆に恵みの御座に近づいていいのだそうです。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
「あろうとするとおりにある」ことが出来るお方、
「あろうと思われるとおりにある」お方なのだそうです。

しかし、私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なった人間は、
使徒パウロが言うとおりで、
「あろうとするとおりにある」ことが出来ない者なのですね。
「善をしたい」という願いはいつもあっても、
それを実行することがない。

 自分のしたい善は行わないで、したくない悪を行っている実態があります。
そして、自分の努力では、その実態をどうにもできない、
そのみじめさの中にあって、
そのままで、大祭司であるイエスによって、
「神に感謝する」(ロマ7:14~25)のだそうです。

 私たちの身代わりとなって、十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、三日目に死人の中より、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスによって、
大胆に、はばかることなく、
恵みの御座の前に出て行っていいようにしていただいているのだそうですから。

 そして、その大祭司となってくださっているイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者を上からすっぽりと覆って下さり、その者の内にあって
〔父である神〕が一人一人に対して思っておられる御思いを心に置いてくださり、
受け入れる者が、〔父である神〕の思われるとおりに「ある」ようにしてくださるのだそうです。

 自分の肉(〔生まれたときからの私〕という霊)を、
さまざまな情欲と欲望とともに、十字架につけたものとしていただいた者は、
御霊によって生き、
御霊が心に置いてくださる御思いに導かれて、進むのだそうですから(ガラテヤ5:24~25)。
 今日も。

 

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