風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

先の見えない私たちにも

神は、
闇にひそむものを知り、
光は御もとに宿る。
ダニエル書2:22

 イエスの言葉:
わたしを信じる者が、
だれも暗闇の中にとどまることがないように、
わたしは光として世に来た。
ヨハネ12:46

 Ⅱコリント13:3~9
 ヨハネ12:1~11(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句3/2;金)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方ご自身が、
光そのものということでしょうか。

 〔御子である神〕、イエスは、
光としてこの世に来られたのだそうですね。
人の光として。
そして光は闇の中に輝いていて、
闇はこれに打ち勝てなかった(ヨハネ1:1~5)のだそうです。

 預言者イザヤは、預言して言います。
「闇の中に歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照、った」(イザヤ9:2、マタイ4:16)と。

そして、エルサレムの神殿で、
両親に抱かれて来た、赤ん坊のイエスに会ったシメオンは、
エスのことを
「異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です」と話したのだそうです(ルカ2:32)。

 〔父である神〕の御思いから外れているところが暗闇であり、
〔父である神〕の御思いの中にいることが光の中にいること、なのでしょうか。

 イエスは、〔父である神〕の御思いのとおりに生きられた方、なのだそうですから。
エスは言われます。
「わたしは、自分から話したのではありません。
わたしを遣わした父ご自身が、
わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。
それゆえ、わたしがはなしていることは、
父がわたしに言われたとおりを、
そのままに話しているのです」(ヨハネ12:49~50新改訳)、と。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、

神に逆らい、対抗する者となって、
神の御思いを求めることをせず
自分の理性による善し悪しの判断によって
自分の思うとおりを生きる者、暗闇の者となっています。

〔父である神〕の御思いに従って、人の世に来られ、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受けてくださり、
死んで葬られ、
三日目に死人の中から復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちのみている前で、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

エスは、天に帰られる前に弟子たちに、
「父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、
あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」(使徒1:5)と言い残され、
使徒パウロを通しては、
聖霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と言われています。

 私たちにも、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
光の中を、
この人間の歴史を導いておられる
〔父である神〕の御思いの中を歩んでほしいと、
闇の中にとどまることがないように、と
願っていてくださるのだそうです。
今日も。

 

(近くの教会を知りたい方等は;shkhknsyg3@yahoo.co.jp)

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

 

<a href="https://www.blogmura.com/point/00697809.html"><imgsrc="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a>