風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

逆らい、退く者を、従い、仕える者に

主なる神は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、退かなかった。
イザヤ書50:5

 わたしに仕えようとする者は、
わたしに従え。
そうすれば、
わたしのいるところに、
わたしに仕える者もいることになる。
ヨハネ12:26

 エレミヤ書15:15~21
 ヨハネ16:25~33(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/22;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
私たちに語りかけてくださり、
私たちの耳を開いてくださるのだそうですね。

 そのとき、預言者イザヤは、
自分の考えで逆らい、横に行くこともせず、
うしろに退くこともせず、
お心のままに身を任せて行った、というのですね。

 ちょうど、イエスが、〔父である神〕のお心に従って、
抗弁もせず、逆らいもせず、侮辱されるままに身を任せ、
足の棒を持たされたら持ったまま、
十字架を背負わされたら背負ったまま、
十字架に釘で打ち付けられたら、打ち付けられるまま、
十字架刑での処刑を受けていかれたように。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっていて(創世記3:5、22)、
神の御思いのとおりに従おうとはせず、
自分の理性の善し悪しの判断で行動していく者です。

それで、〔父である神〕は、その、私自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑済み、死んだものとしてくださり、
聖である方が来られても、私たちが滅びてしまわないようにしてくださるのだそうです。

そのうえで、墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、
ご自分が確かに生きていることを示し、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスを通して、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。

この方をお迎えするなら、
この方が、私たちの心に、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

それで、逆らい、退くばかりの私たちも、
〔父である神〕、〔御子である神〕イエスと、同じ思いを思う者にしていただけ、
御思いのとおりについて行く者にしていただけるのだそうです。
ご自身の御思いを伝える口のようにも(イザヤ15:19)。

そして、イエスのおられるところにいるようにしてくださるのだそうです。
エスが天の御国におられれば、私たちも天の御国に。

 

 本当の愛は、愛する相手と思いを同じにしたいもの、
一緒にいたいもの(ヨハネ
1632)、なのだそうですから。
今日も。

 

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