風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

金銀に心囚われず、最も小さい者をも心に留めるようにも

 主の怒りの日には、
銀も金も、彼らを救うことができない。
エゼキエル書7:19

 この最も小さい者の一人にしなかったのは、
わたしにしてくれなかったことなのである。
マタイ25:45

 ルカ24:1~12
 ヨハネ21:20~25(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句4/7;土)

 「主の怒りの日」と呼ぶ日が来るのだそうですね。
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
私たち一人一人を、それぞれの行いにしたがって報い、
私たちのやり方にしたがってさばかれる、その日が(エゼキエル7:27)。

 その日には、銀も金も私たちの命を救うことはできない、のだそうです。

 そのさばきの座に着いておられる方が言われるのだそうです。
「わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、
渇いているときにも飲ませず、
わたしが旅人であったときにも泊めず、
裸であったときにも着る物をくれず、
病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。
これらの私の兄弟たち、
しかも最も小さい者たちの一人にしなかったのは、
わたしにしなかったのだ」(マタイ25:41~45新改訳)と。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちを、それぞれの行いのとおりにさばいたら、
誰一人として、
正しい者としてご自身の前に立つことができないことを
よくご存じなのだそうです。

 そして、私たちを、「的外れ」のもの、出来損ないのものとして廃棄処分、
ゲヘナの谷でエルサレムのごみが焼却処分されているように)
することを望まず、
なお、私たち人間を大切に思い、惜しんでくださって、
憐れみを表してくださったのだそうです。

 私たちを、それぞれ、自分の行いに応じてさばくのではない、
別の方法を。

 天の神、主は、代理のもの、身代わりのものを立てて、
これをさばくことで、私たちを赦そうとし、
回復しようと計画されたのだそうです。

 〔御子である神〕を、人として、
しかも、アダムの「的外れ」の性質を受け継いでいない
「女の子孫」として(創世記3:15)人の世に遣わし、
この方を処罰することで
私たち人間のそれぞれの行いに応じてさばくさばきが
終わったものとしようとされたのだそうです。

 それで、〔御子である神〕は、
この〔父である神〕の御思いを受けて、
ダビデ王の子孫の、ナザレ村の貧しい一人の処女マリヤの胎を通して、
人間イエスとして人の世に来られたのだそうです(ルカ①:26~38,2:21)。

 〔父である神〕は、この方がおよそ33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちの妬みとローマ帝国の権力を用いて十字架刑で処刑し、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちの
〔生まれたときからの私〕という霊を処罰済み、処刑が終わっている者、
死んだものと手続きをしてくださるのだそうです。

 そして、〔父である神〕は、
十字架刑で処刑され、死んで、墓に葬られ、陰府に下ったイエスを、
三日目の日曜日の早朝、
死人のうちから新しい霊のからだに復活させなさったのだそうです。

 このときの様子を医者のルカは次のように記しています。

 週の初めの日の明け方近く、
女たちは、準備しておいた香料を持って墓についた。
見ると、(墓のふたをしていた)石が墓からわきにころがしてあった。
入ってみると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、
見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思いだしなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、
三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思いだした。

 そして、墓から戻って、11弟子とそのほかの人たち全部に、
一部始終を報告した。
この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。
彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
ところが使徒たちにはこの話はたわごとに思われたので、
彼らは女たちを信用しなかった。

 しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、
かがんでのぞきこんだところ、亜麻布だけがあった。
それで、この出来事に驚いて家に帰った。(ルカ24:1~12新改訳)、と。

 そして、復活されたイエスは、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて、
ご自身が生きていることを証明され、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです(使徒1:3~11)。

 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」
と言い残して。

 そして、10日後の五旬節(ペンテコステ)の日に、
その、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が弟子たちに来られ、
弟子たちはこの方が話させてくださるとおりに話し出したのだそうです(使徒2章)。

 〔父である神〕は、このようにして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
「的外れ」になり、自分の思う道を行く者になっている私たち人間に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、
ご自身が一人一人に思っておられる御思いを、その心に置き、
受け入れる者がご自身と一つ思い、
一つ心になって生きるようにして下さる道(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)を開かれたのだそうです。

 「われわれのかたちとして、われわれに似せた者」(創世記2:26)に
回復するために。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
御子イエスによって、私たち一人一人に来てくださり、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを、
私たちの心に置いてくださって、
受け入れる者が、自由意思で、自発的に、〔父である神〕と一つ心になって、
〔父である神〕がしようと思われることをしていくように

してくださるのだそうです。


 銀や金に心囚われず、
最も小さい者にも心を留めるようにも。
今日も。

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