風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

天に、大空に満ちている、神の慈しみ、憐み、真実を、私たちの心にも

 主よ、あなたの慈しみは天に、
あなたの真実は大空に満ちている。
詩36:6

 憐み豊かな神は、
私たちをこの上なく愛してくださり、
その愛によって、
罪のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし、
――あなたがたの救われたのは恵みによるのです。――
エフェソ書2:4~5

 創世記1:9~13
 エフェソ書5:21~33(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句4/24;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
慈しみ豊かな方。

 その慈しみは天に、
その真実は大空に満ちていて、
雲にまで及ぶのだそうです。

 天の神、主は、
その慈しみによって私たちを愛し憐れんでいてくださって、
創造の目的からずれ、
「的外れ」になり、
霊的に死んでいる私たちをキリストと一つになるものとし、
キリストとともに生きる者にしてくださるのだそうです。

 私たちが救いを受けるのにふさわしい者になったからではなく、
救われる資格のない私たちを、
神の側の一方的な憐れみによって。
恵みとして。

 神は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして。われわれに似せて」
と仰って、
私たち人間を創造されたのだそうですが、
まず、私たちの住まいとして天と地を創造されたのだそうです。

 そして、第一日目には、
「光があれ」とおっしゃると、光があって、光と闇とを分けられ、

 二日目には、
「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があるように」と仰せられて、
大空の下の水と、大空の上の水とを区別されたのだそうです。

 三日目には、
「天の下の水が一所(ひとところ)に集まれ。かわいた所が現れよ」
と仰せられるとそのようになり、
陸と海が現れたのだそうです。

 さらに、「地が植物、
すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、
種類にしたがって、地の上に芽生えさせよ」とおおせられると、
そのようになり、
地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、
またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって
生じさせたのだそうです(創世記1~13、新改訳)。

 〔父である神〕は、
ご自身と〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、自由意思で自発的に一つになっておられる、
その一つに、
愛において、自由意思で自発的に加わる者をと願われて、
私たち人間を造られたのだそうです。

 そして、その創造の目的から外れてしまい、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
私たちの、〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑し、死んだものとするために、
〔御子である神〕を、
「女の子孫」(創世記3:15)として、人の世に派遣し、
この方がおよそ33歳の頃、
私たちの身代わりとして立て、
十字架刑で処刑し、
私たちの「生まれたときからの私」という霊を
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者にもう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを
私たちの心に置いてくださって、
受け入れる者が、ご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしてくださるのだそうです。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちの心に、
〔父である神〕が、
私たちが「キリストを恐れ尊んで、互いに従うように」、
と思っておられる御思い、

妻は、主に従うように、自分の夫に従い、
そして夫は、
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、
自分の妻を愛するように、
と思っておられる御思いがあるようにしてくださるのだそうです。

 イエスが、私たちを愛して、
ご自身をささげて十字架刑での処刑を受けてくださり、
みことばにより、水の洗いをもって、
私たちをきよめて聖なるものとし、
しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く傷のないものとして、ご自分の前に立たせようとしていてくださる、
その御思いを私たちの心に満たし、
エスと心を一つにして生きるようにと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)



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