風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

悔い改めにふさわしい実、御霊の実を結ばせようと

 万軍の主の日が臨む、
すべて誇る者と高慢な者に、
すべて高ぶる者に
――彼らは低くされる――。
イザヤ2;12

 洗礼者ヨハネの言葉:
悔い改めにふさわしい実を結べ、
「我々の父はアブラハムだ」
などという考えを起こすな。」
ルカ3:8

 ガラテヤ書3:1~5
 ヘブル書10:32~39(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句5/25;金)

 万軍の主と呼ばれる方、
天の神、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方が来られるのだそうです。

 その日には、金や銀、富で満ち、自分の力、戦力を誇り、
偽りの神々、人間の手で造った物を拝み、
驕り高ぶっている者、自分を誇る者は
恥を見ることになるのだそうです。

 自分がアブラハムの子孫、イスラエル民族だ、ということも、
さらに言えば、
実際の生活は、神との関係を無視し、
自分の思いのままに生きていながら、
「私は洗礼を受けました。
クリスチャンと呼ばれる者になりました」ということも、
神の前に立てる足がかりにはならないということでしょうか。

 血肉のからだに属することは、
神の国を相続できないのだそうですから(Ⅰコリント15:50)。

 その日には、それぞれが、
生けるまことの神とどのような関係をもって生きるか、
ということだけに心を向けるようです。

 悔い改めにふさわしい実、
天の神、主は、私たちが、
〔生まれたときからの私〕という自分自身である霊が、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
創造の目的からずれ、
「的外れ」になっている者であることを認めるようにと
願っておられるようですね。

 そして、その私たち自身を
エスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑が終わっている者、死んだものとしてくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を、
私たちの身代わりとなって十字架刑での処刑を受け、
墓に葬られ、
三日目に、死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
派遣しくださって、

 この方によって、
ご自身の思いを受け入れる者の心に置き、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、
心を一つにし、
行動を一つにしていく、
その生き方を受け取ってほしいのだそうです。

 自分の力で、神のことばのとおりを生きようと努力する生き方、ではなく、
伝えられ、聞いた約束のことばに信頼し、
御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きを
受け取る生き方をしてほしいと(ガラテヤ3:1~5)。

 だから、確信を持ち続けてほしいのだそうです。
神の御心を行なって、約束のものを手に入れるためには
忍耐が必要なのだそうですから。
期待して待つことが。

 もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。

 天の神、主は、私たちを、恐れ退いて滅びるものではなく、
信頼して命を保つ者にしてくださっているのだそうですから(ヘブル10:35~39)。

ご自身と心を一つにして歩む者にと。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)



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