2018-06-05 本物の自由の中へ 民はモーセのもとに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、私たちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。民数記21:7 イエスは言われた。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」ヨハネ8:36 Ⅱコリント1:23~2:4 ヘブル書13:1~14(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句6/5;火) 出エジプトをしたイスラエルの民、不信仰のゆえに、荒野での40年を過ごし、いよいよ、約束の地に向かって進み始めました。 しかし、民は、途中でがまんできなくなり、民はモーセに逆らって言ったのだそうです。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」 そこで主、「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ」(民数記21:4~6)のだそうです。 モーセは民のために祈り、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」 それで、モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけたので、蛇にかまれた人が、その青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた(民数記21:7~9新改訳)のだそうです。 イエスは言われます。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」、と。 そして、神の独り子であるイエスが、私たちの、罪、「的外れ」を赦し、自由にするために、ご自身を私たちの身代わりに差し出し、十字架刑での処刑を受け、木に架けられてくださったのですね。青銅の蛇が旗ざおに上げられ、それを仰ぎ見た者は生きたようにするために。 使徒パウロは、コリントの弟子たちの中にいた不品行な者、父の妻を妻にしている者を、彼の肉が滅ぼされても、彼の霊が救われるようにと、彼を弟子の仲間から外してしまうようにと命じています(Ⅰコリント5:1~4、13)。あふれるばかりの愛をもって。 だから、その人が、その処罰によって、自分の不品行を悲しみ、立ち返ったとき、その人を赦し、慰めてあげるように勧めているのですね。その人があまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまわないようにと(Ⅱコリンント2:4~7)。 このイエスの十字架刑での処刑により、「子」であるイエスによって「的外れ」を赦され、自由な者としてもらった者に来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、私たちの心にも、〔父である神〕の御思い、兄弟を愛する思い、旅人をもてなす思い、イエスの弟子であるゆえに牢につながれている人々、苦しめられているを思いやる思いを置いてくださるのだそうです。 結婚を尊び、寝床を汚す、不品行、姦淫を避ける思いも。金銭により頼まず、「わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない」(申命記31:6.ヨシュア1:5)と言ってくださる方に信頼し、「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何が出来ましょう」(詩篇118:6)と思わせてくださるのだそうです。 神の御言葉を話した指導者たちのことを思い出し、彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならうように。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、とこしえに同じ、変わらない方であることを知らせてくださるのだそうですから。 さまざまな異なった教えによって心を惑わされないように。食物の規定に気を取られるのではなく、恵みによって心を強めるように。 イエスが、ご自分の血によって私たちを聖なる者とするために、エルサレムの門の外で苦しみを受けられたように、私たちも、キリストの辱しめを身に負い、宿営の外に出てみもとに行く者に。この地上に永遠の都を求めるのではなく、後に来ようとしている都を求める者にしてくださるのだそうです。 上げられ、十字架に架けられた神の御子、イエスを見上げながら、〔父である神〕がしようと思われる御業の中へと。今日も。 (近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)